第26回
『言語学』と『遺伝学』のお話し

 ナノテクの話題から少しはずれるが,最近,2つの科学ニュースに心ときめかすことになったので,そのさわりをご紹介しておきたい。

 まず最初は「言語学」のお話。

 国語辞典でことばの意味を引いて,そこに書いてある説明の語句を引いて,さらにその語句の説明を引いて……という具合にことばの「意味」を引き続けると,いつの間にか最初のことばに戻ってしまう。

 言語哲学者のウィトゲンシュタインは,そんな言語の意味の本質を「使用」と看破した。定義ではなく使用されるコトにこそ言語の意味が存在するというのである。

 この事情は現代風にいうのであれば,「言語はネットワーク構造を持っている」とでもなるだろうか。

 人間以外の動物がどれくらいの「言語」を持っているかは議論の余地があるが,ともかく,人間様が使う言語はシンボルとか象徴とかから始まって,比喩とか寓意とか,実に複雑怪奇な様相を呈している。それでも,原初のことばは,それなりに単純なもので,それが徐々に進化してきたにちがいない。

 言語の構造や起源の研究は,その分野のエキスパート以外にはチンプンカンプンなことが多いが,ICREA-Complex Systems LaboratoryのRamon Ferrer i Canchoたちが王立学会紀要に発表した論文「The consequences of Zipf's law for syntax and symbolic reference」は,ネットワーク科学の観点から非常に興味深く,それなりに納得できるものだ。

 話をカンタンにするために複数の物体を用意して,それに名前をつけることから始める。同じ物体でも「別名」が存在するかもしれないし,同じ名前でも「別のもの」も指す可能性があるので,物体と名前の関係は1対1ではなく多対多の関係になる。次に「最低1つの物体を共有する名前どうしを結ぶ」。たとえば「食事」と「マンマ」は同じ物体を指すのでつながる。そして物体は忘れてしまう。すると,そこには,名前どうしの関係性のネットワークが出現する。ことばのネットワークである。

 さきほどの国語辞典での,ことばの定義を追う遊びは,このネットワークを巡ることにほかならない。

 ここにあるのは,物体を指差して名付けるという原始的な行為だけなのだが,驚いたことにFerre i Canchoらは,こうやってつくったことばのネットワークが「スケールフリー」になっているというのだ。

 言い換えると,(学校の成績や身長分布のような)系を特徴づける平均(=スケール)を持たず,(インターネットや人間関係のように)少数の人気者と大多数の孤立した要素からなるネットワークになっている,というのである。

 たしかに言語は,頻繁に使われれてたくさんの他のことばとつながっている少数の重要単語と,大多数のたまにしか使われないことばからできている。

 言語学での大きな問題の1つは「文法」(シンタックス)の起源だろうが,もしも,Ferre i Canchoらの推測が正しいのであれば,それは,スケールフリーのネットワークの接続性に求められるべきものであり,いわば自然発生的なものだということになる。

 ちょっとオドロキだ。

 お次は「遺伝学」のお話。

 遺伝学も「情報科学」の観点から眺めてみるといろいろと面白いことに気がつく。例えば遺伝情報のエラーをどうやって訂正するのか? どうやって情報をコピーするのか? あるいはどうやったら気がつかれずに情報ネットワークに侵入できるのか?などなど。

 私は若いころ,広告代理店向けに視聴率予測のコンピュータ・プログラムを売っていたことがある。それは情報科学というよりは,実戦部隊のプログラマーだったわけだが,そういった「現場の目」で遺伝の科学を眺めてみると,いかにも,という事例に遭遇することが多い。

 例えば遺伝情報のほとんどが「無意味」だということに首をかしげる人もいるようだが,プログラマーなら誰でもやっているように,古いプログラムは「後で使うかもしれないので」,とりあえず(BASICならREMマークを付けて!)残しておくから,プログラムを書き直しているうちに,無意味なジャンクはどんどん増えてくる。情報系が「進化」するのであれば,使われなくなって意味のなくなったコードが増えるのは,ごく自然のことだ。少なくとも「現場の目」からすれば。

 いったん消したら後で後悔する。だから,とにかく何でも残しておくのである。そのほうが効率がいい。

 あるいは,プログラムをいじくっているうちにうまく作動しなくなって,頭の毛をかきむしりながら,3日前の状態に「復帰」することも多い。やってみて収拾がつかなくなったら,以前ちゃんと動いていたときの状態に戻ればいいからである。

 Perdue大学のSusan J. Lolleらが「Nature」誌に発表した論文「シロイヌナズナで見られたゲノム外情報のゲノム規模での非メンデル遺伝」(Nature 434, 505 - 509 (24 March 2005); doi:10.1038/nature03380)は世界的な話題になっている(Perdue大学からのリリース)。

 シロイヌナズナの遺伝子の解析から,なんと,両親から受け継いだ遺伝情報をおじいさんおばあさん以前の代の遺伝情報に「復帰」させる事例がみつかったというのだ。

 つまり,この植物は,どこかに過去の遺伝情報を蓄えておいて,やばくなったら以前の状態に戻ることが可能らしい。

 遺伝学では,今回のSusan J. Lolleらの発見は非メンデル型の遺伝ということで驚異的なものに映るようだが,おそらく,ソフトウェア開発に携わっているエンジニアにとっては,こういったメカニズムがないほうが不自然,という感想になるだろう。
 
 ナノテクもスケールフリーのネットワークとは深いかかわりがあるし,情報科学とも切っても切れない縁がある……他分野の視点,学際的な視点というのは,科学研究の場では,飛躍をもたらす秘訣という気がする。

 今回は,大幅に話題が逸れてしまいましたが,次回は,ふたたびオーソドックスなナノテク研究ニュースに戻りますので,あしからず。


(初出:日経ナノテクノロジー)


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