第24回
量子力学で水素分子の電子状態を解くことに成功

 ベルギーKatholieke大学ルーバン校スペインのマドリッド自治大学米国ローレンス・バークレー国立研究所(LBNL)、米国カリフォルニア大学デイビス校(UCDAVIS)の研究チームは、量子力学の理論計算によって、初めて水素分子(H2)の電子状態を解くことに成功した。H2の核外電子を光子(フォトン)で吹き飛ばした状態を仮定して解くことができた。

 物理学に近い学問では、必ず量子力学を学ぶわけだが、教科書には水素原子の例題ばかり載っていて、その先がどうなるのかは、必ずしも明確に記述されていない。

 もちろん、ニュートン力学においても、すでに三体問題という壁が存在するわけで、それは量子力学にも当然持ち越されているのだから、教科書に載っていないのも当たり前といえば当たり前の話と言える。

 また、特定のモデルを使って、その枠内で量子力学的な計算をすることと、モデルなしに純粋にシュレーディンガー方程式を(数値的に)解くことでは大きな差がある。

 今回紹介する研究は「分子電子相関のプローブとしての、水素分子の完全なフォトン誘発型の破壊」(Complete Photo-Induced Breakup of the H2 Molecule as a Probe of Molecular Electron Correlation)という題名の論文で、米科学誌Scienceの2005年12月16日号に掲載された(Wim Vanrose, Fernando Martin, Thomas N. Rescigno, C. William McCurdy, Science 310, 1787(2005))。著者らは、LBNLを中心に活躍する化学者であり、同時に計算機科学の達人たちらしい。

 研究内容は、H2にフォトンをあてて、2個ある電子を「吹き飛ばす」と、あとに残された2個の陽子が電気的に反発して、全部バラバラになる「二重光イオン化」という現象をシュレーディンガー方程式を用いて理論計算したものだ(Fig1)。


Fig1 H2にフォトンを当てて核外電子を吹き飛ばした時のイメージ

 素人目には、何が目新しいのかわかりにくいが、比較のために行なわれたヘリウム原子の計算結果と比べてみると、水素の「分子性」がきわだっていることが理解できる(Fig2)。


Fig2 Aはヘリウム「原子」から飛び出す電子の角度の確率分布(断面積)であり、Bは水素「分子」の場合。両者の核外電子数は2個で同じだが、シミュレーションの結果からは明らかなちがいが見て取れる(出典:Science誌掲載論文)

 図の緑色の矢印がフォトンの偏光方向で、それと重なっている赤色の矢印が(90%のエネルギーをもって飛び去る)1個の電子の方向をあらわしている。両端に丸い玉のついた黄色い「バトン棒」は分子の軸(つまり2個の陽子)を意味する。残りの青い風船のような部分が2個目の電子が飛び出す方向の「確率」(=断面積)をあらわしている。

 2つの分子があるために、その軸方向のどちらかへ偏って2個目の電子が飛び出すことが見て取れる。電子が飛び出す方向は、分子間の距離(バトンの長さ)に敏感に依存し、2個の電子が分子内でどのような相関をもっていたかを反映している。

 このシミュレーションは、実は、以前にLBNLのThorsten Weber客員研究員(現フランクフルト大学)等によって実施された(シミュレーションではない実際の)実験(T. Weber et al., Nature 431, 437(2004))が元になっている。今回の実験には2つの意義がある。第1に、Weberらの実験結果を厳密な量子力学の理論計算で確認したこと。第2に、Weberらの実験ではできなかった条件でのシミュレーションをやったことである。

 この第2の点は重要だ。なぜなら、Weberらの実験では、

・飛び出した2個の電子の方向の確率(=断面積)が、純粋な電子相関であり、分子性を直接反映しているのか?

・そうではなく、もっと動力学的な要素が含まれているのか?

と言う2つの疑問に対して解が得られなかったからだ。言い換えると、同じ電荷を持っている2個の陽子が「クーロン爆発」する時に、「バトンの長さ」が短ければ短いほど、エネルギーが大きくなって、その一部が電子に流れて、電子が飛び出す方向に影響する可能性が否定しきれなかったのだ。

 実際の実験とちがって、コンピューター内でのシミュレーションでは、自由に条件を設定することができる。そこで、McCurdyらは、2個の電子が受け取るエネルギーを「固定」してみた。つまり、動力学的な条件を一定にして除去してみたのだ。それでも、飛び出す電子の方向は、分子どうしの距離に敏感に依存していた。つまり、シミュレーションにより、それが純粋な電子相関であり、分子の特性をそのまま反映していることが確認されたのである。

 実際の実験により触発され、その実験との比較によってシミュレーションの正しさを確かめた上、実際の実験では困難な動力学的条件を固定することにより、実際の実験の意味するところを明白にした。まさに、実験と理論の理想的な球の投げ合いという構図である。実験と理論計算を組み合わせた化学研究への道を開いたモデルケースと言えよう。

参考資料(ローレンス・バークレー国立研究所発行)

 今回の成果
 http://www.lbl.gov/Science-Articles/Archive/ALS-electron-correlations.html

 過去の実験
 http://www.lbl.gov/Science-Articles/Archive/CSD-molecular-movement.html


(初出:日経ナノビジネス)


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