2004年12月16日付の英科学誌「ネイチャー」に掲載された「分子軌道の断層画像化」(Tomographic imaging of molecular
orbitals)という論文は,日本とカナダとドイツからの研究者たちによる共同研究の成果だ。(Itatani, J. et al. Nature
432, 867-871(2004))。今回,研究者のコメントと図を追加したので改訂版をアップする。
カナダ国立研究機構(National Research Council)の 教授のDavid
Villeneuve氏の研究グループは,窒素分子の周囲にある電子の量子的な雲(=オービタル,分子軌道)を画像化することに成功した(関連資料)。
医学分野では人体の断層撮影は日常茶飯事になっている。X線を用いた人体の断層撮影では,X線を人体に照射して,それがどのように「跳ね返る」かを分析して,身体の内部を探るわけだ。今回の研究は,それと同じことを人体ではなく分子に対して行なおうというもので,その原理も似ている。
分子軌道を「見る」ためには,まず,非常に強いレーザーパルス光を窒素分子に当てて一番外にある電子を「突き飛ばす」。一時的にイオン化するのである。突き飛ばされた電子は,レーザーパルス光の電場の向きが逆になると,ちょうど海の波に揺られるように,元の場所に戻ろうとする。電子が元の場所に戻ってきたとき,分子内の残っている電子との量子的な干渉によって,X線が発生する。発生したX線を測定することによって,電子の雲の恰好がわかるという寸法だ。
医学における断層撮影では,いろいろな角度からX線を当てて情報を収集するわけだが,分子軌道を撮影する場合も同じようにさまざまな方角からレーザー
光を当ててやる必要がある。そのために,光を使って分子をいろいろな角度へ揃えるという手法が適用された。
物理学の一般常識からすれば,小さいものを見るためには短い波長の光が必要になる。実際,今回の実験でつかわれたレーザーパルス光の波長は分子軌道の大きさの千倍程度なので,本来なら解像度がお粗末すぎて分子軌道は見えないはずだ。だが,電子の雲を見るのに使われるのは,外部から照射した光ではなく,イオン化の際に放出された電子であり,その点が,今回の研究の画期的な側面だといえる。
近い将来,われわれは実際の化学反応を見ることが可能になるだろう。今回の実験ではフェムト秒(10のマイナス15乗秒)程度の「シャッタースピード」で窒素分子の分子軌道を撮影したわけだが,さらに短いシャッタースピードで被写体をとらえることが可能である。また,さらに大きな分子の撮影が可能になれば,化学だけでなく生体分子の研究などへの応用も計り知れない。
本誌の取材に対して,David
Villeneuve氏は,次のようなコメントを寄せた。
「今回,初めて,単一の分子軌道の画像化に成功しました。これにより化学結合の理解が深まり,構造計算も改善されることでしょう。それだけでなく,今回の測定は30フェムト秒以下で行なわれたため,化学反応の最中に結合がどう変わるかを見せる<映画>も撮ることができるでしょう」。
量子化学の分野における画期的な技術が開発されたのである。
なお,今回の研究は,国際色豊かであるとともに,「若手」の共同研究である点に注目したい。論文に名を連ねる日本人研究者は,板谷 治郎氏(科学技術振興機構
腰原非平衡ダイナミクスプロジェクト 研究員)と新倉 弘倫氏(科学技術振興機構 さきがけ研究員)で,ともにポスドクとして研究に参加した。
板谷氏は,本誌の取材に対して,「様々なバックグラウンドを持つ若手研究者が集まって,自由闊達な雰囲気の下で各自の『腕』を発揮して仕事を出来たのが,この研究成果につながりました」と述べた。まさに「科学には国境はない」を地で行っているのだ。また,板谷氏は,「本研究の基礎となる技術として,分子を光でトラップしたり配向を制御したりする技術が,今後ますます重要になっていく」と,研究成果の背後にある基礎技術の大切さにも触れた。
(初出:日経ナノテクノロジー)
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