第8回「『うつ』という名の敵」


 むかしモントリオールに住んでいたころ、鬱に陥った経験がある。
 当時は気がつかなかったが、今から考えると、典型的な鬱症状だった。
 毎日、目が醒めるのが嫌で、
「このまま目が醒めなければどんなにいいか」
 そんな感情に支配されていた。

 さきほどNHKニュースを見ていたら、男女7名が車の中で練炭による集団自殺を遂げた、と言ったかと思ったら、続くニュースでは横須賀の山で女性が二人で自殺したという。
 最近、やけに自殺のニュースが多い。気のせいだろうか。

 ネイチャー誌の2004年6月17日号のニュース特集は「アジアの憂鬱」だった。冒頭で中国の自殺率が社会構造の変化(=老人の孤立化)とともに急増しつつあることを報じたあと、話題は日本へと移る。引用してみよう。

「社会経済的な不確実さと折り合いをつけられない若い世代の日本人に広がる症状」
「数十年に及ぶ日本の経済発展がスランプに陥り、職をもたない下層階級が現れつつある」
 
 もっとも、社会構造の変化よりも文化的な背景を問題にする人もいる。ようするに、中国や日本では、精神的に脆(もろ)い人間は「ダメ人間」のレッテルを貼られて、「甘えている」とか「わがまま」と言われて終わっていたのだ。これまでは。
 つまり、精神ケアのシステムが構築されていない。
 それが、ここにきて急速に表面化してきたのだ。
 一つの考えであるが。

 問題がどれくらい深刻なのかはグラフを見るのがいちばんだろう。



 アジア、とりわけ日本の自殺率が世界で突出していることがわかる。

 だが、日本人が世界でいちばん死にたがる、という認識は、当の日本人には薄いように見受けられる。小泉さんが「自殺問題」に言及したのを耳にした憶えもないし、国をあげての取り組みも知らない。なぜ、このような深刻な事態が、見過ごされているのだろうか。実に不思議だ。

 私はモントリオールに住んでいたころ、人生の不確実性に怯えていたように思う。先が見えない。助けてくれる人もいない。ひとりで社会的な戦いを続けなくてはいけない。よい伴侶もみつからない。
 精神を圧迫する複数の要因が長期的に続いた結果、私は鬱の状態に陥ったように思う。

 私は、それでも精神が強靱だったのか、あるいは、鈍感であることが幸いしたのか、そういった精神的な危機を通り抜けて「生還」した。

***

 最近、ふとしたことから精神科医や心理療法士の人々と話す機会があって、とても驚いたことがある。
 それは、彼らのほとんどが、ひっきりなしの「予約診療」に忙殺されて、たとえば、緊急の患者を受け入れる暇もない、という情況だ。
 ネイチャー誌のグラフは本当だったのだ。
 
 今、この国には、自殺寸前の人が数え切れないくらいいるのに、政府は無策であり、専門医や心理療法士の数は完全に不足している。
 そして、日本全体の「精神」は、この世界から見ても異常な事態を「認識」していないように思われる。
 あるいは、怖いから目をつむっているのかもしれない。

***

 私が話した精神科医たちは、みな、疲れていた。仕事に追われて、あるいは不機嫌であったり、あるいは能面のような顔になっていたり。これでは、精神的な悩みを抱える患者を治すよりも先に、自分たちの精神ケアが必要だろう。

 この国の精神ケアはどこへゆく?
 
(引用はグラフも含めて「月刊ネイチャーダイジェスト」より)

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