第6回「血も涙もないシュレ猫談義」

※学研「大人の科学」のコラムより

 
かなり前のことになるが、茂木健一郎と一緒に札幌で開かれた日本生理学会「若手の会」主宰のシンポジウムで講演をした。当初、「心脳問題」が議題だと聞いて、物理畑のオレに何をしゃべらそうとしているのか、首を傾げてしまった。

 心脳問題というのは古くから哲学で「心身問題」として知られているもので、「物質である身体(脳)と精神である心の関係はどうなっているのか?」という素朴な疑問のことだ。
 ぶっちゃけた話、科学者の多くは「心は脳の機能にすぎない」と答えるだろうし、宗教者の多くは「なんと心の貧困なことか」と嘆くだろうし、解剖学者の多くは「バラバラにしたら、どちらもなくなってしまう」といって嗤うことだろう。

 冗談はともかく、オレが呼ばれた理由は、「脳と量子力学の関係」について何か気の利いたことを言え、ということであった。ちょっと解説しておくと、量子(電子、原子など)は、ふつうの古典粒子(米粒、きな粉など)とちがって、粒子の性質と波の性質を合わせ持っているので、居場所もはっきりしないし、ぶつかってもすり抜けたり、重ね合わさったりする。量子が(なんらかの理由により)波の性質を失うと古典粒子に移行する。

 さて、、みんなの期待をよそに、開口一番、オレは持論を展開しはじめた。
「放射能崩壊によって50%の確率で青酸カリが出る仕組みの鉄の檻。そこに閉じ込められた可哀相な猫は、半分生きていて、半分死んでいる。檻の外にいるマッドサイエンティストが檻の扉を開けて、中を覗いて<オレは観測したゾ>と意識した瞬間に、猫の状態は生と死のどちらかに決まる。つまり、意識が関与するまで、猫は量子論的な生死の重ね合わせの状態にあるのだ」
 という有名なシュレディンガーの猫の例から始めて、
「でも、意識が量子の不思議と関係する、という話は、最近ネイチャー誌に掲載された論文によって終止符が打たれた」
 と締めくくったのであった。

 引用したのは、2004年2月19日の711ページに出ている「熱放射による物質波のデコヒーレンス」(Arndtら)という論文だ。(注:物質波=物質が量子の波のような性質を示すこと。デコヒーレンス=量子が波の性質を失って古典的な物質になること。)フラーレン70というサッカーボール型の大きな分子を摂氏1700度まで熱してから飛ばしてやると、周囲に放熱するので、「熱源」として特定されて、居場所がバレてしまう。つまり、ふつうの古典粒子に移行してしまうのだ。

 で、フラーレン話とシュレ猫話との共通点だが、次のようになる。
「シュレ猫もフラーレンも、量子のふるまいから古典的なふるまいに移行するのだが、フラーレンの実験から明らかなように、量子は勝手に古典粒子に移行するだけであって、人間の意識を持ち出す必要はニャイ」
 ちなみに、フラーレンは最初から量子だが、シュレ猫を量子にするためにはマイナス百数十度まで冷やさないといけない。そんなことしたら、猫は、死んでしまうがな。

 で、何か夢のある話を期待していた聴衆が、血も涙もない講演をしたオレのことを睨みつけていたように感じたが、それって、自意識過剰か?



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