第3回「ホーキングから量子情報理論まで」


 一ヶ月のうちに二度も米科学ジャーナル『サイエンス』誌の科学ニュースになった話題がある。

 英ケンブリッジ大学の宇宙物理学者で世界的に有名なS. Hawkingによる、「一般相対性理論および重力に関する第17回国際会議」(17th annual International Conference on General Relativity and Gravitation)における特別講演の中身である。

 最初のニュースが7月30日号に速報の形で、そして、詳しい技術解説が8月13日号に、ともにC. Seifeによる署名記事として掲載された。

 それがナノテクとどう関係するのかであるが、冗談でなく、意外と近い将来、量子情報産業に大きなインパクトを与える可能性がでてきたように思われるのだ。
 いったい、どういうことか?
 Hawkingは、これまで、ブラックホールに吸い込まれた情報は永遠にこの宇宙から消えてしまう、という立場を堅持してきた。それは、ブラックホールが放射によっていずれは蒸発してしまう、という量子論的な計算を自ら行なってみせてから後も、一貫して守ってきた見解であった。

 ところが、7月18日から24日にかけてアイルランドのダブリンで開催された会議の直前になって、Hawkingは、突然、予定になかった特別講演を行なうことを宣言。全世界の学者ならびにマスコミの注目を浴びることとなった。

 7月21日に行なわれた講演で、Hawkingは、ユークリッド経路積分と呼ばれる特殊な数学技法を使って計算をしてみせて、「あなたがブラックホールに飛び込んだら、あなたの質量=エネルギーはこの宇宙に戻ってくる……あなたの姿形の情報を含みつつも、ぐちゃぐちゃで、すぐにはそうだと見分けられないような状態で」と主張した。

 本当にそうなのか? ユークリッド経路積分という特殊な数学技法が、現実のブラックホールに当てはまるのか? さまざまな疑問の声があがっており、今のところ一般相対論と量子宇宙論の専門家の間でも意見の一致はみられない。

 だが、注目すべきは、『サイエンス』8月13日号の科学ニュースの見出しである。それは「Quantum Information Theory」(量子情報理論)となっている。すなわち、この一見アカデミックな象牙の塔の話は、すでに、「量子的に情報は保存されるのか否か?」という量子情報理論における論争になっているのである。
 量子力学的には情報は保存される。(粉々になった茶碗も根気さえあれば復元できる、という意味で。)それが量子情報理論の基礎だ。それに対して、重力理論では、これまで、ブラックホールに吸い込まれることによって情報が失われることがある、とされてきた。早い話、二つの陣営は対立してきたのである。

 Hawkingの心変わりは、古典的な重力理論による情報の扱いはまちがっており、正しく量子論的に計算してみれば、情報は(たとえブラックホールに落ち込んでも)保存される、という意味だ。つまり、量子情報理論にとっては心強い味方が増えたのだといえる。

 もっとも、今回のHawkingの発表は、量子論や超ひも理論の専門家の間では、意外と冷静に受け止められているようだ。ようやくHawkingも自分なりの計算によって事の真相に辿り着いたか、というような雰囲気なのである。
 ホーキングと賭けをしていた二人の物理学者をご紹介しておこう。カリフォルニア工科大学のジョン・プレスキルキップ・ソーンである。プレスキルは量子力学畑でソーンは一般相対論畑。ソーンは、電話帳の異名をとる「Gravitation」という教科書の共同執筆者でもあり、現在はカリフォルニア工科大学の「ファインマン職教授」だ。ちなみにソーンは、まだ、負けを認めていない。(写真はふたりのホームページから)

   

   
Drawing by Glen Edwards, Utah State University, Logan, UT

 物理学の大御所の一人が意見を変えたからといって、現場の研究や開発は影響を受けないかもしれないが、量子情報理論のベンチャーへの投資を考えている投資家にとっては、それなりに有益な投資情報であったことはまちがいがない。

 多少、コンテクストは変わるが、英科学ジャーナル『ネイチャー』誌の8月19日号に「ドナウ川をわたる量子テレポーテーション」(Quantum teleportation across the Danube)という短信の論文が掲載されて、こちらも話題を呼んでいる。オーストリアのウィーン大学のR. Ursinらのチームは、ドナウ川の下を通る下水管の中に通した光ファイバーと、地上でのマイクロ波によって、光子の3つの異なる偏光状態を600メートル離れた対岸に伝えることに成功した。今回の通信の信頼度は0.84であり、古典的な信頼度の限界である0.66をはるかに凌ぐ。R. Ursinらは、「われわれは実験室外の現実世界において、長距離の信頼性の高い量子テレポーテーションを実演してみせた」と述べている。

 量子テレポーテーションの原理はC.H.Bennettらによって1993年に確立された(C.H.Bennett et al., Phys.Rev.Lett.70, 1895-1899(1993))。テレポーテーションは、4段階で行なわれる。(「アリス」が送り手で「ボブ」が受け手)

ステップ1 アリスとボブが「量子からみあい」の状態にある粒子AとBを分け合う
ステップ2 アリスが送りたい量子状態Pを用意する
ステップ3 アリスは手元のPとAを同時測定し、その(古典的)観測結果をボブに送る
ステップ4 ボブは、手元の粒子Bにアリスからの古典情報を加味して、元の量子状態Pを復元する

 今回のR. Ursinらの実験では、アリスが用意した量子状態は光子の「偏光状態」であり、量子からみあいの状態にある粒子AとBのうちBが下水管の中の光ケーブルで川の下を越え、アリスの古典的な観測結果がマイクロ波で川の上を越えたわけである。

 ドナウ川を越える量子テレポーテーションの話もHawkingの講演同様、産業の芽とはほど遠い印象があるかもしれない。だが、R. Ursinが、BBCのインタヴューに、
「(今回の結果は)量子通信に投資を考えている人にはとても重要なのだ」
 と答えている点は注目すべきだろう。
 量子情報の分野は、理論と実験の両面から、新たな段階に入りつつある、といえるだろう。


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