日経adore 6月号

e感じのひと Vol.10


文・福冨忠和氏

科学とフィクションを越境するミステリー作家


物理学と現実の
二重構造の世界


  理科系ミステリーと呼べるような一連の作家群が目立っている。森博嗣、高嶋哲夫、瀬名秀明、ミステリーではないが最近では東大教授の西垣通まで小説を書いている。「科学研究はもともとミステリーだ」という理解もあれば、このIT時代、フィクションにも科学的バックボーンが欠かせないから、という意見もある。その中で、物理学の博士号を持ち、数多くの科学書の著者でもある湯川薫が、その科学知識を駆使して書きはじめた探偵・湯川幸四郎シリーズは、文学界と科学界の双方から一気に評価を得ることになった。

「最初は東大の法学部に入学したが、自分に向いていないと感じ、1年で哲学に転部。科学哲学を専攻してから、学士入学で物理学に移り、卒業してから今度はカナダのモントリオールの大学で哲学を専攻したけれど、教官と喧嘩したりして(笑)、そのまま転部したりしながら、最終的にマギール大学大学院で物理の理論の専攻で博士号を取得した」
 
  79年から92年まで学生だったというから、「学校道楽」なんていう言葉も浮かぶが、カナダは「居心地がよかった」ということもあり長く滞在。帰国後は翻訳、塾講師、広告代理店のプログラマー、PR誌ライター、非常勤講師など、定職にはつかずあれこれ。いわばフリーター生活だった。

--当然、学者としてやっていく道もあったはず。

「今から考えると、物理は単に好きだったというにすぎない。学者として論文を量産していく柄ではないし、非常勤講師を7年やってみて、教員も向いていない気がしている」。

  他人に要求が高く、自分が背負い込む部分も大きい。竹内薫名義での科学書の翻訳や執筆を続けるうちに、もともと文芸畑の担当編集者に勧められ、小説を執筆。処女作『ディオニシオスの耳』(徳間書店)は、非常に高
い評価を得ることになる。そういえば竹内薫の科学書にも、小説に近いスタイルのものがある。先の理科系ミステリー作家の台頭といい、いま、物語と科学の世界が近づいているとでもいうのだろうか。

「そうだと思う。私の言葉では『世界全体のSF化』と呼んでいる」といきなり物理学者の顔になる。

「量子力学の世界では、世界は波動関数として表される。それは複素数なので目に見えない虚数の世界だが、人間の理解のために、実数として取り扱う。つまり世界は物理学とわれわれの現実で二重構造になっていて、最近の物理学ではわれわれの見ている世界は決して『リアルではない』ということになっている。映画『マトリクス』の世界に近い」

  フィクションとノンフィクションの境界や、世界の「リアルさ」は、物理学的には崩れつつある。科学と小説の境界も、そうだ、という。

アブダクション
第三の推理


  量子論と小説。2つのレベルのリアリティに関するやや難解な論が展開するが、ここから先は、最低限、科学ライター・竹内薫の翻訳書・著書を読んでないと、ややわかりにくいかもしれない。

  『アインシュタインとファインマンの理論を学ぶ本』『ペンローズのねじれた四次元』『シュレディンガーの哲学する猫』『科学の終焉(おわり)』『ペンローズの量子脳理論』『科学は心霊現象をいかにとらえるか』『宇宙フラクタル構造の』など、竹内名義の著書は、評判になったものも含めて、かなりの数だ。

  加えて、帰国後プログラマーの仕事をやっていたことなどもあり、小説のほうにも、コンピュータやインターネットに関するかなり深い記述も出てくる。

  公開鍵方式の暗号の説明が入り、PGP(暗号)でエンコードされた「BIGIN PGP MESSAGE」以下の文字列が、小説の本文にそのまま出てくる。マッキントッシュ版のLINUXを使い「どうして、純正品のソフトだけを使わなくてはいけないの?」(『Dの虚像』)というオープンソースな探偵も、なかなか魅力的だ。

  自分のWebサイトで読者と直接コミュニケーションする湯川は、中心的なファン層を「常連さん」と呼ぶ。小説は、一作ごとにその常連さんを増やしつづけてきた。「企業の技術者、それに医師がなぜか多いようだ」というのは読者層としてよく理解できる。しかし「最近はミステリー同人誌などに関係する女性読者やCGなどを描いている人も多くなった」

  理系の男性、大学のミステリー研(では評価が分かれる、と言うが)、投稿が好きな若年の女性ファンと、全般にコアな読者だが、ターゲットは広範。だから専門的な物理ミステリーを書けばいいというわけでもないのだ。

「閉ざされた人工空間で、推理が展開される、というミステリーの王道的な考え方は、実はあまり面白くない。数理論理学的に考えても、演繹では情報量は増えない。名探偵と呼ばれる人も、そういう推理をやっていない。今注目しているのは、演繹法(ディダクション)、帰納法(インダクション)以外の3つめのアブダクションと呼ばれているもの。科学でも実はそうであるように、仮説が直感的に浮かび、それに基づく実験を行う、という方法」。

 現在準備中の「漂流密室」の中では、この手法が湯川流の推理として定式化される、という。

SFは売れない
という定説を破って


  訪ねた自宅兼仕事場は、作品にも登場する鎌倉郊外の高級マンション。そこに両親、妹、猫と暮らす。本人のホームページで名前が出ている映画ノベライゼーションなどの作家である竹内さなみ氏は、実の妹だ。お茶をいただいたお母様の顔には「親離れしなくて、しょうがない子どもたち」という表情がちょっと漂っている(笑)。
湯川ファンには有名な、「落ちてきた猫」が、取材者たちに人なつっこく体を摺り寄せてくる。

  執筆に使う自室は意外に簡素だが、「幸四郎のテーマ」(Webからダウンロードできる)を弾いていると思しきシンセキーボードの上に、ジャズピアノの教則本が置かれている。小説は今後も湯川幸四郎のシリーズを中心に書き下ろし作品を進めていく片方で、科学から離れた歴史ミステリーの企画も進む。

「今までの本に少しづつ出ていた平家伝説を、今度は正面から書いてみようと思っている」。

  実は他の作品でも同様のケースが多いのだが、この作品は、湯川自身の体験がかなりベースになっている。モントリオールでの偶然で奇妙な人間関係が母体となって、今はこの作品のために、九州での取材が進む。
しかし、歴史ミステリーとなると、湯川作品の科学的な精度に引き込まれる「常連さん」にはやや残念な話かもしれない。

「たしかに読者からは、もっと本格的な科学ミステリーを書いてくれ、という声も多いし、自分も書こうと思わないではない。しかし、出版界で『SFは売れない』という評価が定着しているのをはじめ、なかなか版元の了解は得られないのが実情」
 
  しかし、その評価は間違っている。映画のヒット作はほとんどSFであるし、要は本格的なものが書き得ていない、ということにすぎない。書いて売れないはずはない、と湯川。企画として暖めているものもある。
  このあと、実際の犯罪に応用されてしまうような科学技術描写を、どこまで書けるか、という話になったが、企画中の作品内容とも関係があるので伏せておこう。



湯川薫(ゆかわ・かおる)
1960年、東京。世田谷区経堂生まれ。東京大学で科学哲学と物理学専攻。モントリオールのマギール大学大学院で博士号を取得。竹内薫名義の科学書の翻訳や、科学書の著作多数。1999年に、湯川薫名義で『ディオニシオスの耳』(徳間書店)でデビュー。『虚数の眼』『イフからの手紙』(徳間書店)、『Dの虚像』(角川書店)などの著書がある。

(左奥)湯川薫のホームページ(https://kaorutakeuchi.com/)㊧『虚数の眼』にも登場した視覚化された量子論的な世界。人間が壁を通りぬける確率があることを示すために、量子論的に観た壁の形を、実際のグラフで示している。これは湯川自身がパソコンで製作した

福冨忠和(ふくとみ・ただかず)
出版、広告、音楽、映像制作を経てコラムニスト、短大講師、NGO理事など。著書『インターフェースの大冒険』(アスキー)、『趣味悠々 いまからでも遅くないインターネット入門』(NHK出版)、『IT2001 なにが問題か』(共著岩波書店)、『メディア学の現在・新版』(共著 世界思想社)ほか。

写真:廣瀬久起


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