猫はカガクに恋をする?

 猫好き科学作家が贈る カガクと恋愛の新感覚ファンタジー


解説

●第六章

・ポロニウム
 原子番号84の元素。
 そもそも原子は原子核の中に何個の陽子があるかで名前が決まります。原子番号84というのは、原子核の中に84個の陽子がある、という意味なのです。

 原子核には、陽子のほかに中性子も存在します。リトビネンコ氏の暗殺に使われたポロニウム210の場合、中性子の数は126個です。この210を質量数といいます。つまり、

   陽子の数84個+中性子の数126個=質量数210

という関係があるのです。ようするに、原子の性質は、原子核の中の陽子の数で決まり、原子の重さは、陽子と中性子の総数で決まる、ということです。

 中性子の数は126個とはかぎらず、124個のポロニウム208、134個のポロニウム218などもあります。中性子の数がちがうポロニウムのことを「同位体」と呼びます。

 ポロニウム210は140日ほどで半減します。また、チューインガムの銀紙にでも包んでしまえば、ポロニウム210が放出するアルファ線は遮へいできるので、暗殺用には都合のいい物質だといえます。
 
・ラジウム
 原子番号(=陽子の数)88の原子。むかしは医療用に使われましたが、最近ではコバルトに取って代わられています。もともと、マリー・キュリーが二度もノーベル賞を受賞した大きな理由の一つは、ラジウムが医療用に使える、ということでした。

・アルファ線
 昔から知られている放射線は、アルファ線とベータ線とガンマ線です。当初は、これらの放射線の正体が不明だったために、このように呼ばれていたのです。

 今では、アルファ線の正体は「ヘリウムの原子核」、ベータ線の正体は「電子」、ガンマ線の正体は「光子」であることがわかっています。

 ヘリウムの原子核は、さらに説明すると、陽子二個と中性子二個からできています。

・ナノ・グラム
「ナノ」というのは「十億分の一」という「小ささ」をあらわす物理用語です。同様な言葉としては、「センチ」が「百分の一」、「ミリ」が「千分の一」、「マイクロ」が「百万分の一」です。逆に「大きさ」をあらわす言葉としては、「メガ」が「百万」、「ギガ」が「十億」、「テラ」が「一兆」です。

・マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Sklodowska Curie) 一八六七年〜一九三四年
 ワルシャワ生まれの物理学者・化学者で、女性として史上初のノーベル賞受賞者です。この一家の業績は驚くほどで、マリア自身がノーベル物理学賞・化学賞、夫ピエールは物理学賞、娘夫婦はそれぞれに化学賞を受賞しており、一家四人で五つものノーベル賞を得ています。

 ラジウムの発見が有名ですが、その前に、二〇〇七年に起きた元ロシアスパイ暗殺事件で、一躍その存在を顕した「ポロニウム」を発見、分離に成功しています。放射能科学の体系は、キュリー夫人がその礎を造り上げたと言えるでしょう。

 ですが、学術面の功績に比べると、彼女の私生活はあまり幸福だったとは言えなかったようです。パリへ留学するためのお金を稼ぐために、一七歳から自活を始め、住み込みの家庭教師をしています。貧しい生活に耐えながらもソルボンヌ(パリ大学の一部)で学びましたが、本文中にもある通り、「外国女」というレッテルは常に彼女を苦しめていたようです。そして突然奪われた結婚生活、その後の不倫スキャンダルと、女性としての幸せな生活は望めなかったようです。

 第一次大戦時には、彼女は大活躍をしました。レントゲン装置を改良してレントゲン車を造ると、自ら運転免許を取って、その車で娘のイレーヌと共に前線に赴きました。そこで撮影されたX線写真は、なんと百十万枚に及んだといいます。X線が発見されてから、これほどまでに実用的に使われたのは、彼女の活躍によるものだと言えるでしょう。しかし、娘のイレーヌはこの貢献を政府に表彰されましたが、マリアは恋愛スキャンダルの影響か、表彰を受けることはなかったそうです。

 その功績が報いられるには、一九九五年まで待たなくてはなりませんでした。キュリー夫妻の遺体が、フランスの偉人を合祀するパンテオン(廟)に祀られたのです。夫ピエールの死後からおよそ九十年、マリアの死後からおよそ六十年も経って、ようやく二人はフランスの英雄と認められることになったのです。

 ちなみに、本文中の写真や風刺画のくだり、および、マリアがピエールの死後、その遺品を残していたという部分は、作者の創作であることをお断りしておきます。

※本文中では「マリー」と表記しましたが、ここでは結婚前の呼び名である「マリア」、つまり祖国での呼び名を使用しました。

 一八六七年 ポーランドのワルシャワに生まれる

 一八九一年 パリへ行き、ソルボンヌに入る

 一八九三年 物理学の学士試験に一番で合格、翌年には数学の学士試験に二番で合格。

 一八九五年 ピエールが博士号を取得、ピエールとマリアは結婚する。求婚は、出逢ってからわずか数週間のことだったという。

 一八九八年 物質が放射能を出す性質を「放射能」と命名。七月にはポロニウム、十二月にはラジウムを発見する。

 一九〇二年 純粋の塩化ラジウム〇,一グラムを抽出することに成功。ラジウムを素手で扱ったため、指に生涯残る火傷を負った。

 一九〇〇年 セーヴルの女子高等師範学校の、初の女性教師となる

 一九〇三年 「放射性物質の研究」で理学博士となる。同年、夫妻とアンリ・ベックレルにノーベル物理学賞が与えられるが、マリアは体調を崩していため、一九〇五年にストックホルムへ行くことになる。

 一九〇六年 ピエール、交通事故により死亡

 一九〇八年 マリア、ピエールの後任として、ソルボンヌの教授となる

 一九一一年 ブリュッセルで行われた第一回ソルヴェー会議(各国の高名な物理学者が招かれていた)に、マリアとランジュヴァンが参加。その頃、マスコミが二人のことを恋愛スキャンダルとして取り上げ、大騒ぎとなる。それと時を同じくして、「ラジウム元素とポロニウム元素の発見に寄る化学への貢献」に対し、ノーベル賞を受賞。マリアは病の身で授賞式に出席、講演を行う。

 一九二〇年 米の有名女性雑誌の記者に誘われ、米へ訪問。入手困難だったラジウムと、研究費七千ドルを米大統領より受け取る。

 一九三四年 七月四日 悪性貧血により没

・参考URL
ピエール・キュリーの鞄
http://www.rhhct.org.uk/gallery4.html


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