『虚数の眼』 著者からのメッセージ  湯川幸四郎シリーズの第二弾。  前作同様、自分の領分である物理学と数学から題材をえて、暗号解読や量子力学のうんちくを盛り込んだ作品です。  藤原定家の百人秀歌については、同じ時期に出た『QED』という作品との類似が指摘されたりしましたが、もともと、ニュースステーションや日経新聞の文化欄を賑わしていた太田さんがお書きになった本の推薦をさせていただいた経緯で、百人秀歌に隠されている数学的な暗号に興味を抱いたのです。  どうも、ミステリー畑の人々は、「類似」という観点から本を見ることが多いようですが、そういうのは、下司の勘ぐりというべきでありましょう。  読者からの評判は、前作よりも良く、特に関西の大学生から、メールが多く寄せられました。なぜ、関東よりも関西で受けたのか、いまだに理由は不明です。  僕の父親の実家は岡山で、戦国時代は毛利家の客将などやっていたらしく、日本最古の古武術の家として知られています。もともと京都の出で、室町末期に岡山に移り住んで地方豪族となったそうなので、どこか、関西と波長が合うのかもしれません。  この本に出てくる大学は、僕が7年ほど非常勤講師をやっていた成城大学がモデルで、学生の何人かもモデルがいます。もっとも、モデル問題には発展しないでしょう。  また、馬術ですが、高校時代に僕は馬術部でインターハイに出場した経験があり、当時、通っていた、参宮橋の東京乗馬倶楽部の情景を思いだして描いたものです。  エピローグで葵がアメリカの父親を訪ねていって、そこで自分とは関係のない幸せな家庭を見るくだりは、かなりの部分、実話に取材しています。  僕は、そういった人生の哀しさのようなものを作品で描きつづけていきたいし、もしかしたら、狭義のミステリー作家は向いていないような気がしています。  題名は、当初、 ●暗号倶楽部殺人事件・乱歩の眼 ●虚数を見る男 ●キュビットに笑う死体 ●ツァラトゥストラの眼  という案があり、成城大学の学生にミニターを頼んだり、編集の本間さんと相談した結果、最終的に「虚数の眼」に落ち着きました。  見本では、入稿したテキストデータをお見せします。このあと、ゲラで表現の手直しをした結果、市販されているものに変わりました。すでに読んでくださった方は、どこがどう変わっているのか、読み比べてみてください。  自己採点(満点は★5つ) トリック   ★★★ キャラクター ★★★ 新鮮味    ★★ 風情     ★★★ 総合     ★★★ 主な登場人物 茗渓大学関係 湯川幸四郎 非常勤講師(半プータロー状態) 十文字葵 学生 冷泉恭介 学生 五月雅彦 教授 五月あきら 助教授 大森豊 助手 早坂三郎 助手 警視庁科学捜査班関係 木田務 班長 林美里(みさと) 刑事 九鬼新平 警部 その他 早乙女俊 暗号研究所所長 十文字義基(よしき) 副所長(葵の叔父) 松平重子 東都乗馬倶楽部理事長 杉田淳夫 松平の腹心 安斎珠夫(たまお) インターネット会社社長 目次 プロローグ 黒猫屋 一章 心の影 二章 暗号学校 三章 倶楽部・第二の殺人 四章 青ざめた馬 五章 研究所・第四の殺人 六章 存在せぬ空間 七章 解かれる封印 八章 追いつめられた狩人 九章 起死回生 十章 休暇 エピローグ 晩秋 プロローグ 黒猫屋 1   どごーん、ずごごごご、ばーん   ぴーぽーぴーぽーぴーぽー ねえ、ままー   きゃあ! ずどーん きゃははははは ねえ、ままーったらー なによ、うるさいわね! つまんないよー  たーぼー、いま、いいとこなんだから、あっちでかってにあそんでな! ちぇ!   てけてけてけてけてけ   ぱーん、どっかーん しんだ、しんだ、しんだ・・・  少年は、頬をぷーっと風船のように膨らませた。ゲームに熱中している母親から離れて独りで店内を散策しはじめた。  ジャイアンツの野球帽にジャンパー。半ズボンに黒いスニーカー。どこにでもいる普通の少年。鼻の上にそばかすがある。  てれてれしながら母親の視界から消えた。  新橋駅から歩いて五分。繁華街の角地に黒猫屋はあった。おもちゃの老舗(しにせ)である。  金曜日の午後七時半。  十階建てのビルの中は、会社帰りのOLやサラリーマンの姿がちらほらとみえる程度だ。さほど混み合ってはいない。  野球帽をかぶった少年は、独りでらせん階段を上っていった。階段は外壁についたガラスのチューブの中にある。  すると、七階と八階の中ほどに男が腰かけていた。奇妙な格好のゴーグルをはめてゲームに興じている。  少年は、物欲しそうな表情で男を眺めていた。  突然、男がゴーグルをはずして少年を見上げた。  少年は、思わずぶるっと身震いした。  回れ右をして七階へ戻りかけたとき、後ろから、 「坊や、やってみるかい?」  男が優しく声をかけた。  少年が振り向いた。  見ず知らずの男に声をかけられて躊躇(ちゅうちょ)しているようなそぶりをみせた。 「これ、映像がスゲエぞ」 「・・・」  少年が唇を噛みしめた。 「でも、ママに知らない人と話したらいけないって云われてるから」 「ははは、最近は何かと物騒だからな。でも、ボクは店員だし、ちょっとゲームやるくらいなら、ママもそんなに怒らないんじゃないか?」 「そうかな」 「ママはどこ行ったの?」 「うん、独りでゲームやってる・・・ちょっとやってみようかな」 「よし、じゃあ、まず、帽子を取りな」  男は、少年の黒い野球帽と交換に、自分が持っていたゴーグルを手渡した。 「どんなゲーム?」 「ふふふ、それはやってみないと・・・。遠藤拓也くんっていうの?」  男が帽子の内側を見ながら訊いた。 「うん、みんな、たー坊って呼ぶよ」 「そっか、たー坊、いいか、この眼鏡をしっかりと頭にはめるんだ・・・そう、ちゃんとカチッというまでとめて」 「こうかな」 「うんうん、そうだ。コントローラーは普通のと同じだから大丈夫だろ?」 「うん、大丈夫」 「ああ、メニューを見て、面白そうなのを選んでやってみなよ」  男にそう云われて、少年は、手にしたコントローラーをいじくり始めた。 「あれ? 画像がゆらいで変になっちゃったよ」  少年がゴーグルをかけたまま、窓によりかかっている男の方を見た。  そのとたん、少年の視界でサイケデリックな光の束が破裂した。 2  蛍の光が静かに流れはじめた。 「本日はご来店まことにありがとうございました。閉店のお時間でございます。またのご来店を心よりお待ち申しあげます」  館内にアナウンスの声が響いた。  おもちゃのビルから蟻のように人の列が出ていく。  カウンターでは、店員たちがレジのチェックと後片づけをはじめた。  ガラガラという音をたてて一階の入り口のシャッターが半分ほど閉まりかけた。 「たー坊、たー坊!」  泣きそうな顔の女が歩き回っている。まだ二十代前半くらいの母親は、頭を後ろで束ね、アニマルプリントのぴったりしたワンピースを着ている。顔にそばかすの跡がある。 「どうしました?」  入り口に立っていた警備員が気がついて声をかけた。 「子供が、いなくなってしまって。あれほど注意してたのに・・・」  母親がおろおろと周囲を見回しながら弁解するように云った。 「そうですか、ここは広いですから、結構、迷子も出るんですよ。でも、もう閉店間際なので、すぐに見つかると思いますよ」  そう云うと、胸についている無線で連絡を取り始めた。  母親は心配そうな顔で警備員の顔をのぞき込んでいる。 「・・・了解。では、迷子センターまでお連れします」 「どうですか?」 「いや、まだ、お子さんは保護されていないようですが、とりあえず、迷子センターのほうでお待ちください。館内連絡で店員たちが探しはじめますから」 「はあ」  警備員に促されて、母親は、二十メートルほど先の従業員扉を通って警備室まで歩いていった。  中に入ると、年輩の警備員が一人、立ち並ぶモニターカメラの前に腰掛けて雑誌を読んでいた。二人が入ってきたのに気がつくと、ばつが悪そうに急いで雑誌をしまって居直った。 「迷子さんですね?」  丸く脂っこい顔に笑みを浮かべて母親に尋ねた。 「はい」  母親が肩を落として答えた。 「まあ、おかけください。お茶でもいれましょう」  年輩の警備員が立ち上がった。 「すみません、ほんとにあの子ったら、見つかったらお仕置きしてやるから」  母親は、そう独り言のようにつぶやいた。 「なに、おもちゃ屋ではよくあることですよ。ご心配には・・」  そう云いかけた若い警備員の視点が凝結して、震える手で立ち並ぶモニター画面の方を指さした。 「あん? どうした?」  急須をもってお茶をいれていた方の警備員が怪訝そうな顔つきになって訊いた。 「が、画面に・・・」  若い警備員の声がとぎれた。  年輩の警備員と母親が、ほぼ同時にモニターの画面を見た。   がちゃん  急須が床に落ちて割れた。 「きゃあ!」  母親が叫んだ。  一番右端(みぎはじ)のモニターには、男の姿が映し出されていた。子供の足を持って、荷物を引きずるようにトイレに入ってゆく。 「た、たー坊! だれか、お願い、だれか助けて! なんとかしてぇ!」  母親の絶叫が聞こえたかのように、画面の中の男の顔がゆっくりとモニターカメラのほうを振り向いた。  男は笑っていた。  いや、そうではなく、ハロウィーン用のおもちゃの仮面をかぶっていた。  男が片目をつぶってウィンクのような仕草をした。  画像に何かがかぶせられて見えなくなった。  気を失った母親が膝から崩れ落ちるように床に倒れた。 3  車の赤色灯が消えた。  三人の刑事が降り立った。  むさくるしい顎髭にがっしりした体型の木田務(きだつとむ)。  同じく角刈りで顎が長く柔和な顔つきの佐藤新平(さとうしんぺい)。  渡辺毅(わたなべたけし)は二人より背が低いが、気が強そうな若者である。  半分閉まったシャッターの前に立っていた制服警官が敬礼をした。  よれよれのレインコートを着た年輩の刑事が、あわててシャッターをくぐって外に出てきた。 「ご苦労さまです!」  と、三人に声をかけた。 「科学捜査班の木田だ。子供は、まだみつからないのか?」  木田警視が刑事に質問した。 「は、申し訳ありません、警視殿。トイレの中は隈(くま)なく探したんですが、ただいま、店内と周辺に捜索範囲を拡げているところです」  刑事が手の甲で額の汗を拭きながら答えた。 「科学捜査班あての挑戦状というのは?」  佐藤警部が訊くと、刑事は、 「三階のトイレ前の監視カメラのレンズに張り付けてありました」  と云って、懐からビニール袋に入れた紙切れを取り出して佐藤に渡した。 警視庁科学捜査隊 新聞記事見たよ。 国民の血税の無駄遣いだよ。 誰がたー坊をやったかヒントを出してやろう。 「たで食う虫も好きずき」  木田と佐藤と渡辺は、互いの顔を見合わせた。 「なんだ、こりゃあ、誘拐犯がなんでわれわれに挑戦状なんか出すんです?」  渡辺刑事が、素っ頓狂な声を出した。 「わからんな。左手で走り書きしたような感じだな。とにかく、今は、行方不明の子供が先だ。われわれも捜索を手伝おう」  木田に先導されて、三人は半分まで下がっているシャッターをくぐって店内に入った。  店内は、大勢の警官たちが、忙(せわ)しなく歩き回っている。 「子供をひきずって三階のトイレに入っていく犯人の映像が監視カメラに映っておりました。トイレの中から子供の野球帽とジャンパーが発見されました」  さきほどの刑事が三人に状況を説明した。 「通報があってから、誰も外に出していないわけだね」  佐藤が年輩の刑事に確かめた。 「はい、開いている出入り口は、一階の正面のシャッターのところだけです。三階のトイレを中心に捜索をしているんですが」  緊張のせいか、刑事のこめかみから、つーっと汗が流れた。 「屋上は?」  佐藤が質問した。 「は? あ、はい、数名、捜索に上がっておりますが」 「車から降りたときに見上げたら、隣のビルとくっついていた。格好の逃走経路になる」  佐藤が指摘した。 「はい、隣のビルにも人員を派遣しました。ただ、通報から第一陣が駆けつけるまでに十分はありましたから、その間に隣の雑居ビルを通って逃げられた可能性はあります」  刑事がハンカチで額の汗を拭(ぬぐ)った。 「十階だな」  木田の一言で、四人は、エレベーターで最上階に向かった。  エレベーターは外壁についており、上昇するにつれて新橋の美しい夜景が眼下に拡がった。  十階はぬいぐるみ売場になっている。 「どうだ?」  汗かきの刑事がこの階で捜索にあたっていた若手の部下に声をかけた。 「はい、トイレも非常階段も捜索済みです」 「屋上は?」 「はい、屋上への鍵は開いてましたが、人影はありませんでした」 「そうか」  報告を受けた刑事が木田の表情を窺った。報告したばかりの若手の刑事が、反発心を露わにした表情で木田を一瞥(べつ)した。 「ちょっと、この階を回ってみよう」  木田は、そう云うと、無数の縫いぐるみの間を歩き始めた。 「電子レンジでチンすると暖かくなる?」  渡辺が驚いた表情で傍らの新式の縫いぐるみを手に取った。 「おもちゃ屋なんて何十年ぶりかなあ。近頃はハイテクの縫いぐるみなのか」  佐藤が渡辺の手にした縫いぐるみをしげしげと眺めながら感想を洩らした。  木田は、独りで先を歩いている。  縫いぐるみの山は、どこか不思議で懐かしい感じを与える。  やがて、壁で区切られた小部屋のような所に来た。おとぎの国を模したつくりになっていて、周囲の壁紙も西欧の中世のお城や森が描いてある。紙でできた大きな黄色い三日月の横顔が笑っている。  木田は三日月から目を離してぐるりと小さな部屋の周囲を見回した。      たー坊死んだ   たー坊死んだ   きゃはははは  突然、背後から女の声が聞こえた。  ぎょっとして木田が振り向くと、笑う三日月の真下に一体のテディベアが座っていた。   録音?  木田は、恐る恐る、そのテディベアに近づいた。すると、また、同じ声が聞こえた。人が近づくと再生される仕組みだ。  しばらく躊躇した後、木田は、震える手で、テディベアの頭を小突くように押してみた。  とたんに木田の表情が険しくなった。 「ボス、何かありましたか?」  いつのまにか追いついてきた佐藤警部と渡辺刑事が木田の横に並んで立った。 「見つけたよ・・・」  木田が目の前のテディベアを指さした。  渡辺が、両手で熊の縫いぐるみの頭を持って上に引っ張った。すると、頭は、すぽっと抜けた。  下には少年の顔があった。  紅い目を大きく見開いた少年の顔は、なぜか、微笑んだ表情のまま凍りついていた。  口と鼻が二枚の透明テープでふさがれている。  テープは、あくまでも呼吸をさせないためのものであり、少年の不可思議な笑みとは関係がない。  三人は、ごくりと唾を飲み込んだ。  そして、しばらくの間、その場で立ちすくんでいた。  やがて、渡辺が、大きく深呼吸をすると、無言のまま、縫いぐるみの背のジッパーを下げた。  少年の両手は、透明なテープをぐるぐる巻きにされて、後ろ手に縛られていた。 「なんてことだ」  佐藤が険しい顔つきになってつぶやいた。  幸福そうな表情が嘘であることを示すかのように、少年の目尻から、深紅の涙が一筋、流れて落ちた・・・ 二章 三から 「彼? 珈琲なんか持って余裕じゃん」  湯川の顔を見て、廊下にたむろしている数人の学生のうちの一人が云った。 「ちがうわ、もっとおじいちゃん先生よ」  女学生が答えた。二人は、壁にもたれたまま、通りすぎる湯川を興味なさそうに見送った。  隣の教室の教授の話をしているのである。湯川の顔を見て「彼」と云ってしまう学生と「おじいちゃん先生」という言葉遣いの学生。湯川は、今時の学生の一部に見られるあっけらかんとした言動についていくことができない。 「十年ひと昔か。俺も歳だな」  湯川は、ふと、世代のギャップのようなものを感じながら、自分の教室に入って行った。  細長い教室には、真ん中に長方形の机があり、奥に小さな黒板が据えつけてある。  陰気な小部屋は、まるで納戸(なんど)のような印象を与えた。  四人の学生が二人ずつ向かい合って座っている。コの字の二画目の位置に湯川が着席した。 「藤原定家(ふじわらのていか)が選んだ『百人一首』には、長い間、冷泉家に伝えられ、門外不出とされた『百人秀歌』という影の歌集がある」  湯川が冷泉恭介(れいぜいきょうすけ)の顔を見て話しはじめた。  冷泉が無言で微笑んだ。 「昭和二十六年に偶然、宮内庁の書陵部から写本が発見された。発見者は有吉保氏だ。その後、久曽神昇氏によっても別の写本が発見された。ちょっと質問していいかな?」 「なんなりと」  冷泉が答えた。 「もしかして、君は藤原定家の子孫の冷泉家の血筋かい?」 「はい、でも、うちは分家のまた分家ですから」 「やっぱりそうか。藤原定家の三人の孫が、二条、京極、冷泉の三家に分かれたわけだね」 「はい」 「つかぬことを聞くようだけど、宮内庁から発見されなかったら冷泉家は永遠に『百人秀歌』を公にするつもりはなかったのかな」 「さあ、どうかな。情報公開の世の中ですから。うちは本家でないので詳しいことはわかりません。なんでも時雨亭(しぐれてい)文庫に蔵されているらしいですね」  冷泉が他人事(ひとごと)のように云った。  冷泉恭介は、肩まで伸ばした髪にメタリックな紫のフロスティングを入れている。  女性のようにさらさらした髪だ。  顔立ちは、面高で端正な瓜実顔(うりざねがお)。心持ち切れ長の目と口角が少し上がった唇が気品を漂わせている。  綿シャツと革のバイカーズパンツが容貌とミスマッチして不思議な感じを与える。 「影の歌集ってどういうことですか?」  葵が質問した。 「百人一首と百人秀歌は九十七首までは同じ歌が採られているんだ。だが、その並び順は大きく違う。また、百人秀歌は全部で百一首ある」  湯川が答えた。 「百一首って、なんだか中途半端ですね」  坊城玲子(ぼうじょうれいこ)が指摘した。玲子は歌留多の絵のような古風な顔つきをしている。気の強い優等生だ。 「そうなんだ。その、百でなくて百一というところに大きな秘密が隠されているのさ」  湯川が玲子の顔を見て云った。 「どんな秘密ですか?」  公文洋介(くもんようすけ)が訊いた。異常なほど大きなおでこに打たれ慣れたボクサーのような鼻は、およそ馬術部の副キャプテンには似つかわしくない。 「まあ、その秘密は、おいおい明らかにしていこうか。まずは、親しみ深い歌仙の話からはじめよう。百人一首にも百人秀歌にも、三十六歌仙のうちの二十五人だけから歌がとられており、六歌仙のうちの五人だけから歌がとられている。ここで注目してほしいのは、三十六と二十五が六と五の平方数であることだ」  湯川は、そう云うと立ち上がって黒板に五歌仙の歌を書き連ねはじめた。   花の色はうつりにけりないたづらに   わが身世にふるながめせし間に           小野小町(九番、十三番) 「その番号はなんですか?」  葵が質問した。 「ごめん、ごめん、この歌は、百人一首では九番目に登場して、百人秀歌では十三番目に登場するんだ」  湯川が書くのをやめて後ろを振り向いて答えた。   わが庵は都のたつみしかぞ住む   世をうぢ山と人はいふなり           喜撰法師(八、十四)   ちはやぶる神代もきかず竜田川   からくれなゐに水くくるとは           在原業平(十七、十)   天つ風雲の通ひ路ふきとぢよ   乙女のすがたしばしとどめむ           僧正偏昭(十二、十五)   吹くからに秋の草木のしをるれば   むべ山風をあらしといふらむ           文屋康秀(二二、二七) 「もう一度云うけど、括弧の中の始めが百人一首、後が百人秀歌の番号だ。ここには、驚くべき数字の遊びが隠されているんだが、わかるかな?」  湯川は全員の顔を順ぐりに見まわした。みんな一様に首をかしげて黒板の数字を眺めている。 「宿題にしようか?」  湯川が云うと、 「せんせい、数式の宿題は出さないって約束でした」  と葵が頬をふくらませて抗議した。  残りの学生もうんうんとうなずいて葵の肩をもつ。 「わかった、残念だけど答えを云うしかないね」  あまり残念でもない様子で湯川が黒板に数字を書き始めた。   小野小町 九+十三=二二   喜撰法師 八+十四=二二   在原業平 十七+十=二七   僧正偏昭 十二+十五=二七      文屋康秀(二二、二七) 「括弧の中の番号を足してみると、小野小町(おののこまち)と喜撰法師(きせんほうし)は二二になる。在原業平(ありわらのなりひら)と僧正偏昭(そうじょうへんじょう)は二七になる。そして、この二二と二七は、文屋康秀(ふんやのやすひで)の番号に一致するんだ。およそ、偶然の一致とは思えない。おまけに、二二と二七を足すと四九となって、またもや平方数。冷泉くん、この数字の一致が偶然である確率はどれくらいになるかな?」  湯川が冷泉を指名した。 「四人の数字の和が五人目の文屋康秀の数字に一致する確率は――」  冷泉が目をつむってじっと考えている。  数秒後、冷泉は目を開くと、 「概算ですが、数百分の一くらいですね。ただし、二二と二七という数に特に意味がないとして」  と答えをはじきだした。 「計算が速いね」  湯川が驚きの表情を見せた。 「すごーい、どうしてそうなるの?」  葵が感嘆の声をあげた。 「あたしたちと頭の構造がちがうみたいね」  玲子があきれて云った。 「確率の計算くらい中学生でもできるよ」  この冷泉の言葉に公文が顔をしかめかけたが、すぐに湯川に質問した。 「確率が数百分の一ってどういう意味です?」 「トランプを切るように、数百回、百人一首をランダムに並べ替えてはじめて、四人の歌仙の番号が五人目の文屋康秀に一致する。実際には、定家は一回しか並べ替えていない。それが百人秀歌なんだ。だから、意図的に歌仙の番号を振ったと結論づけることができる」  湯川の解説が熱を帯びてきた。 「古代人が和歌ばかり詠んで暮らしていたというのはわれわれの思い込みにすぎない。古代の宮廷人たちは血みどろの政争に明け暮れていたし、荘園からあがってくる年貢を計算する仕事もあった。いくら人まかせと云ったって、途中でちょろまかされるかもしれないじゃないか。藤原定家を馬鹿にしちゃいけない。彼は鎌倉時代きっての知識人だったんだ。才能は文学だけに限られていたわけじゃない。少々の数の遊びくらいあっても不思議はないだろう」 「そうですね。子孫の冷泉くんも計算得意みたいだし」  葵が感想をもらした。 「でも、藤原定家は、こんなに複雑な計算までやっていたんでしょうか」  公文が疑義を差し挟んだ。 「藤原定家が仕組んだのは、平方数のトリックと四人の歌仙の番号を文屋康秀の番号に合わせるといった奇抜なしかけだよ。さっき、百人一首と百人秀歌に共通な歌の数が九七首と云ったが、それを示すかのように、百人一首で定家の歌は九七番目にある。いずれにしろ、藤原定家が暗号の大家であったことだけは確かだね」  湯川が答えた。 「せんせい、それで、百人秀歌が百一ある理由はどうなったんですか?」  葵がさきほどの問いの答えを催促した。 「ああ、ごめん、ごめん。それは、小野小町、喜撰法師、在原業平、僧正偏昭の四人の番号が暗に文屋康秀を指していることからもわかるように、百人秀歌は、・百人と文屋康秀の一首からなる歌集・という意味なのさ。ただ、定家は自分の歌も採っているわけで、百人より秀でた定家の歌が一首、というようなうがった解釈も可能だ。それを示すかのように、定家の歌は百人秀歌の百番目にある」  湯川が黒板に・秀・という字を書きながら答えた。 「すごーい」  葵が目を丸くして感心した。 虚数の眼 湯川薫 (c)Kaoru Yukawa 1999 発行所 徳間書店