『漂流密室』入稿原稿見本(ゲラの段階での直しが入っていないもの) TERROR at TERRA 世界遺産ミステリ・屋久島編 読者へのメッセージ  読みおわったら、もう一度、読みたくなる。  トリックがわかったあとでも、読者の本棚においておいてもらえる――。  そんな余韻の残る作品を目指しました。  誤解されっぱなしの僕ですが、いつも「街の洋食屋さん」の昔なつかしい味つけを心がけています。  本格的なトリックと、青春の涙と、しっとりとしたユーモア。  湯川薫から読者への風変わりな挑戦、どうか、受けてみてください。  自己採点(満点は★5つ) トリック   ★★★★ キャラクター ★★★★ 新鮮味    ★★★ 風情     ★★★ 総合     ★★★★ 主な登場人物 ・シュレ猫探偵団・ 湯川幸四郎・・・科学捜査班アドバイザー 犬神利休「利Q」・・・湯川の友人 冷泉恭介・・・茗渓大学学生 十文字葵・・・茗渓大学学生 坊城玲子・・・茗渓大学学生 公文洋介・・・茗渓大学学生 ・子ども科学教室・ 五條隆「タカ」・・・科学教室の生徒 天野ゆきの「ユキ」・・・科学教室の生徒 大谷吉章「メガネ」・・・科学教室の生徒             大谷吉輝の一人息子 鈴木礼次郎「ブン」・・・科学教室の生徒 朝倉絵里子・・・臨床心理学者 田中未来男・・・歯科医 ・テラ・フロート関係者・ 大谷吉輝・・・テラ・フロート計画総帥 太田敏夫・・・テラ・フロート主任設計技師 郡司あきら・・・大谷吉輝の秘書 山田彰夫・・・テラ・フロートづきの運転手 目次 プロローグ 一章 そして誰もいなくなった 二章 王夜王久行 三章 シュレ猫探偵団・ 四章 テラの惨劇 五章 脱出パズル 六章 シュレ猫探偵団・ 七章 座敷ぼっこ 八章 そして問題は解決された プロローグ    ふふふ。  運命とは皮肉なものよ。  広大な世界のまっただ中で、私が、こいつと偶然に出会う確率など、限りなく、ゼロに等しい。  だが、いま、私は、こいつの前に座っている。  私とこいつとは背格好が似ている。  これは、もしかしたら、悪魔が与えてくれた、千載一遇の好機なのではあるまいか。  そうだ。  いま、私の耳には、悪魔からの啓示が、囁(ささ)やかれはじめた。  幾何学的な殺人?  この男と世界とのつながりを断ち切るためには、いくつの結節点を消せばいいだろうか。  五つ?  多くて七つか。  最高でも十一もあれば充分だろう。  それならば、決して不可能な数ではない。  ふふふ。  いま、私が考えていることを知ったら、こいつ、いったい、どんな顔をするだろうか。  こいつは、なにも知らずに、滔々(とうとう)と自分の壮大な夢について語っている。  だが、気がついたときには、その夢は、もはや、こいつの夢ではなく、私の悪夢の中に吸収され、悪魔が天使を凌駕する。  十一番目の席が埋まったとき、世界は、私の悪夢で満たされるにちがいない。  さて。  それでは、  ご要望にお応えして、  幾何学的に美しい殺人の計算をはじめるとするか・・・。   一章 そして誰もいなくなった  やがて、海がおさまったら、陸から船と人とが来るであろう。そして、十人の死体とインディアン島の謎とを発見するであろう。       ローレンス・ウォーグレイヴ判事 1  私の名は犬神利休(いぬがみりきゅう)。  おやじが骨董と茶器に凝りすぎて、千利休にあやかってつけた名前だ。  私と湯川幸四郎(ゆかわこうしろう)とは、高校時代の同級生だが、先月、数年ぶりに、新宿で、ばったり出会ったのだった。  幸四郎は、ちょうど、新宿三丁目の交叉差点にある交番のほうから、新宿御苑のほうへ向かって、高校時代と同じようなスタジャンにサングラスをかけて、足早に歩いてきた。  私は、三丁目の映画館で、暇つぶしに映画を観ての帰り、そろそろ長くなってきた髪を切ろうかと、床屋に向かってぷらぷらと歩いていた。  私は、一目で、黒と金の龍のスタジャンを来たサングラス男が湯川幸四郎であることに気づいた。(★もうちょっと洋服の補足↓金の龍を刺繍した黒いスカジャンにブラックフライのサングラス。足元はコンバースのハイカット。注、スカジャン=ヨコスカジャンパー)  だが、やっこさん、むかしからそうなんだが、私が手を振っても、ちっとも気づきやしない。例によって、白昼夢でも見ているかのように、ふわふわとした足どりで床屋のある路地へ折れてしまった。  私は、歩調を早めて幸四郎のあとを追った。  すると、やっこさん、驚いたことに、末広亭(すえひろてい)のちょっと先にある、私の行きつけの床屋に入るではないか。同じ床屋にかよっていて、これまで顔を合わせたことがなかったのだろうか。  私が床屋に踏み込むと、すでに、幸四郎は、サングラスをはずして、店長にスタジャンをあずけて、スリッパを履きかかっていた。 「おい、幸四郎、無視すんなよ」 「あ? なんだ・・・利Qじゃないか」 「おまえ、あいかわらず上の空だなぁ」 「上の空?」 「交叉点で見かけて手を振っただろう」 「気がつかなかった」 「考えごとでもしてたのか?」 「殺人のトリックを考えていたんだ」 「殺人トリック? なにそれ」 「いま抱えている事件の――」 「おまえ、化学かなにかが専門じゃなかったっけ?」 「物理学だよ」 「警察に入ったのは木田務(きだつとむ)だったろ?」 「そうだ」 「わからんな」 「科学捜査班の顧問をやってるんだ。僕は理系だしコンピューターのプログラミングもやってたからね」 「科学捜査班?」 「そうさ」  一瞬、床屋の店長が笑いかけたので、もしかしたらオヤジギャグかとも思ったが、幸四郎は澄まし顔である。 「新聞で読んだことがあるな。アメリカのFBIの向こうを張って、日本版の広域科学捜査班をつくるとかなんとか」 「木田に呼ばれて顧問をやっている」 「なるほど・・・なにやら、よくわからんが、まるで漫画みたいな話だなぁ・・・店長、こいつはよく来るのかい?」  われわれの会話に目を丸くしていた店長は、 「やだ、たまにしか来ない犬神さんとちがって、うちの上得意よ」  と、笑いながら答えた。 「店長、この男は利Qと呼べばいいんです。千利休の利にアルファベットのQ」  幸四郎が、余計なことを口走りはじめた。 「ば、馬鹿」 「あら、そんなの初耳じゃないの」 「こら、幸四郎、いらぬことを言うんじゃない」 「だいたい、利Q、おまえ、高校時代からさらに頭髪が進化したくせに、床屋になんぞ来る必要ないだろう」  私はグサリと胸を刺された思いがした。  幸四郎は、むかしから、神経が繊細かと思えば、逆に、信じられないほど鈍感なところがある。 「あら、それで利QのQが英語のアルファベットなの?」  勘のいい店長は、指を三本立てて自分の頭のてっぺんにかざした。 「おまえらなぁ」  なじみの店に、高校時代からのありがたくない渾名(あだな)がばれた私は、店じゅうの笑い者になりながら、ひとり、顔をひきつらせて、逃げ場のない恥辱を感じつつ、それでも奇妙な愛想笑いをするしかなかったのである。 2  突然の再会に気をよくしたわれわれは、久しぶりに新宿三丁目のジャズバーで飲むことにした。  このへんは、実にごちゃごちゃと路地が入り組んで、小さな店が軒を連ねている。まるで整理整頓されておらず、それが、かえって、われわれを和(なご)ませてくれるような貴重な空間なのだ。  末広亭から歩いて数分。路地裏に隠れるように存在する小さな緑の入口には、なぜか看板がかかっていない。  もう何十年も、同じ場所でジャズの生演奏を聴かせながら、常連だけを相手に商売をしている特異な店なのだ。  店内は、やけに天井が低く、それでも暗く落ち着いた照明になっていて、カウンターのほかには、四人がけの木のテエブルが五つあるだけだ。  満員になっても三十人くらいしか座れない。  われわれが入ると、ジャズトリオの演奏する「All the things you are」が聞こえてきた。客の入りは、いつもどおりで、店の半分以上の席は埋まっている。 「おひさしさま」  私は、カウンター席に腰かけると、笑いながら近づいてきたマスターに声をかけた。 「おや、おや。誰かと思ったら犬神さんじゃないの。お珍しい」  マスターは、小柄で痩せていて、こころもち女性言葉で話すのが癖だ。鼻が高いので、どこかピノキオに似ているようにも見える。 「最近、どう?」 「この不景気だから」 「看板出しゃいいじゃないの」 「だから、言ったでしょう?」 「なにを?」 「バブルのときに、常連さんがはじきだされて、そのあと苦労したんだってば」 「おお、聞いた、聞いた」 「痛い目にあってわかったのよォ。いつも来てくれるお客さんをないがしろにしたらバチが当たるってね」 「そのいつも来てくれる客のおれが、新しいお客を紹介してやるよ。高校時代の同級生、湯川幸四郎だ」 「どうぞよしなに」  マスターが幸四郎におしぼりを手渡した。 「なかなか良い雰囲気の店ですね」  幸四郎が店内を見まわしながらいった。  目が弱い幸四郎は、むかしから照明の明るい店を嫌う。その点、この店の照明は、幸四郎好みなのだろう。  ギムレットを注文したわれわれは、ときおり、会話のジャブをくり出しながら、互いの近況を確かめ合った。  「あいかわらず鎌倉に住んでるのか?」 「いまは東京の仕事場と実家を行ったり来たりの生活だよ」 「仕事って大学で教えてるんじゃないのか?」 「アルバイトでね。最近、本職は探偵になりつつある」 「探偵?」 「なんだよ、そんなに驚くほど変わった職業でもないだろ」 「まあ、おれにとっちゃ、探偵なんて、来る日も来る日もギムレットを飲み続け、ロサンゼルスの場末のビルに事務所を構えている奴くらいしか、頭に浮かばんからな」 「僕はハードボイルド系じゃない」 「そんなこたぁ、見ればわかる。そこが不思議なんだよ・・・犯罪組織のやつらに追われてカーチェイスを繰り広げたり、依頼人の絶世の美女と熱い抱擁をかわしたり・・・探偵ってのは、タフじゃなくちゃ、やっていかれない職業じゃなかったのか?」 「アームチェア・ディテクティヴというのもある」 「なんだそれ」 「肘掛け椅子に座ったまま、推理をする探偵のことさ」 「聞いたことねえな」 「イギリスのグラント警部や日本の神津恭介(かみづきょうすけ)とか」 「んなの、推理小説の中だけの話じゃねえのか?」 「情報化社会たる今、現実に棲息することが確認されはじめてきている」  幸四郎が二杯目のギムレットを飲み干した。 「おまえ、酔ってきたな」  幸四郎はむかしから酒に弱い。  賭事もからきし駄目。  女遊びにも縁がない。  ときどき、こんな人間が、よくぞ、社会の荒波に呑まれて溺死せずにいられるものよと、不思議に思うことがある。 「酔ってる人間が自分れ酔ってるころを証明するころは可能か」  幸四郎は、そろそろ、ろれつが回らなくなってきた。 「不可能だ」 「パソコンや携帯電話が普及するにつれれ、IT犯罪も多発するようになった」 「物理学者が探偵やる時代ってわけか」 「そーゆーころ」 「犬神さんはパソコンとかつかうの?」  マスターが暗に次なる注文を要求しながら訊ねた。 「けっ、こちとら、江戸っ子よ。女子どもの使うおもちゃなんて、いらねえのよ」 「まあ、驚くほど差別的な発言ねえ。いまどき、うちらだって、パソコンでメールやったり、税金の申告したりする時代だってのに」 「ま、いいさ、もの書き稼業にパソコンなんていらねぇ」 「もの書き稼業?」  幸四郎が興味深げな顔つきになった。 「ああ、そうさ」 「どんなものを書くんだ」 「おれは旅行ライター」 「旅行ライラー?」 「ああ、ほら、旅行雑誌に『激安・旬の旅行ガイド』なんて感じで書くのさ」 「あはは、利Qの場合、どちらかというと、風俗ライターのほうが似合う感じだな」 「馬鹿いえ」  そのとたん、ギムレットをつくりおえたマスターが、 「犬神さん、そっちの仕事のほうが多いんじゃないの」  と、余計な口をはさんだ。 「マスター、変な聞き耳立てるのやめて、あっち行ってろよ」  ジャズトリオの奏でる曲が「いつか王子さまが」に変わった。    私は東京生まれの東京育ち。生粋の江戸っ子で、いまだに外国に行ったことがない。幼少時をニューヨークですごした幸四郎とは正反対だ。  幸四郎は、背が高く痩せている。私は背が低く小太りだ。  幸四郎は頭髪があり、私は・・・周囲の基準では、禿げに属するらしい。  幸四郎の家は、著名な実業家や学者を輩出した名家だが、私の家は、下町のしがないしもた屋だった。  商才に恵まれなかった父は、引退するまで、中小企業のヒラ社員で終わった。うだつのあがらないわりには、親父は、「呑む・打つ・買う」の三拍子そろった、いっぱしの遊び人だった。  そんな具合だから、私と幸四郎とは、同級生という以外に、これといった接点がなかった。  ところが、高校一年の秋に、ちょっとしたスキャンダルが勃発した。  幸四郎の父親が、酒と女とギャンブルで週刊誌のネタにされて、世間を騒がしたのである。そして、マスコミの連中が、下校途中の幸四郎にしつこくつきまとっているところを、私が、下町仕込みの喧嘩術で助けたのだった。  私にしてみれば、自分の親父とくらべて、幸四郎の父親が特にひどいとも思わなかったが、ハイカラというイメージしかなかった幸四郎にも、人なみに悩みがあるのだとわかったら、なぜか、急に親近感がわいてきたのを覚えている。  斜陽のブルジョア家庭に生まれ育った幸四郎にとっては、人生のすべてが悲劇だったにちがいない。  そして、私のほうは、なぜか、すべてが喜劇になるのだった。  私と幸四郎の仲が良かったのは、性格も育ちも、なにもかもが正反対の凸凹(でこぼこ)コンビだったからなのかもしれない。  へべれけになって、千鳥足で店を出たわれわれは、タクシーをひろうと、連れだって、高田馬場にある幸四郎のマンションに乗りつけた。  私は、千葉県の船橋市にアパートを借りているのだが、どうせ、独り身だし、便利な都会のマンションに転げ込むことに抵抗はなかった。 3  玄関の呼び鈴が鳴った。  壁にかかっている時計を見ると針が一本しかない。  私は、一瞬、目が悪くなったのかと思ったが、よくよく目を凝らしてみると、短針と長針が重なっていた。  つまり、正午ということだ。  耳を澄ませてみたが、ベッドルームから、幸四郎が起きてくる気配はない。  そうだ、高校のときから、幸四郎は、朝が弱いのだ。  いや、弱いなんてもんじゃない。  しょっちゅう、遅刻ばかりしていて、担任の先生にも、 「そんなこっちゃ、将来、夜の商売しかできなくなっちまうぞ」  などと脅されていた。  昨日の話では、幸四郎は、アルバイトで科学解説を書くこともあるそうな。そういうフリーライター業といい、なんとも中途半端な探偵業といい、とてもじゃないが、正業というには、ほど遠く、ある意味で、担任の予想が的中したのだといっていい。  私は、ため息をつくと、長椅子ベッドのスプリングの音をたてないように、静かに両脚を床におろした。  寝起きの悪い幸四郎は、他人に起こされると、無性に機嫌が悪くなるからである。  泣く子を起こす必要はない。  そのまま、そろり、そろりと、薄暗い玄関まで歩いていって、覗き孔から外を見た。  若い長髪の男とかわいらしい茶髪の女の子が立っている。 「あんたたち、誰?」  私がドアをあけると、ふたりは、驚いたような顔になって表札を確認した。 「茗渓大学の学生の冷泉恭介と申します」 「十文字葵です」 (★ふたりのファッションや装身具など補足。葵↓白いピーコートにアッシュ色のノースリーブのハイネックセーター、同色のヒップハングのストレッチパンツ。靴はベージュのバッドランダー。恭介↓革のバイカーズジャンパーに Abercrombie & Fitchのベースボールシャツ。ペイントされたリバイスのジーンズ(ダブルネームのバージョン)指には王冠形の指輪(ロイヤルオーダー製)。靴はDr.Martensの圧底ブーツ) 「ああ、幸四郎の学生さんね」  ふたりを招き入れると、 「おれは幸四郎のダチ公の犬神・・・ふわぁ」  ふたりに向かって、大きな欠伸(あくび)が出たのだった。  十五分後、シャワーを浴び終わった幸四郎が、軽装に着替えて、居間に入ってきた。シャワーを浴びるのに長すぎると思われるかもしれないが、まさに寝起きが悪い証拠である。 「や、おはよう」  幸四郎がふたりに手を振った。 「おみやげに先生のお好きなベイグルを買ってきました」  冷泉と名乗った学生が、すっくと立ち上がった。 「やけに気が利くね」 「ちょうどお昼にまにあってよかった」  そういうと、まるで、幸四郎の奥さんのように、キッチンへ歩いてゆき、紙袋からドーナッツのような奇妙な形のパンを取りだして、他の材料とともに料理をはじめた。 「恭介は料理がうまいんです」  西洋人のような顔つきをした女の子、十文字葵が、とまどっている私に解説をしてくれた。  私も、ちょうど腹が減ってきていたので、キッチンの冷泉くんのところまで歩いていって、 「なにをつくるんだい?」  と、声をかけた。 「これです」  そういって、冷泉くんは、手書きのレシピらしきものを私に手渡した。 ・チキン・ナッツ・ベイグル・ 材料  ・ベイグル(セサミあるいはポピーシード入り)  ・鶏肉ささみ  ・レモン  ・ほうれん草  ・生クリーム  ・パルメザンチーズ  ・チャービル  ・胡桃(くるみ)  ・カシス入りマスタード 作り方  鍋に湯を沸騰させ、レモンの輪切り四枚ほどを浮かべ、ささみ肉を茹(ゆ)でる。茹で上がったら裂(さ)いておく。  ベイグルを二枚にスライス。切り口を下に向けてフライパンにのせ中火で熱し、焦げ目がついたらとりだす。  フライパンにほうれん草とひたひたの生クリームをいれて煮る。ほうれん草がしなしなになったらパルメザンチーズを振りかけ、先ほどのささみと砕いた胡桃を加え充分に絡んだら塩胡椒して刻んだチャービルを混ぜ込む。  具をとりだしてベイグルにのせ、最後にカシス入りマスタードを適量のせる。 「これ、あんたが考えたの?」 「そうです」  私は、冷泉くんの答えに、内心、のけぞってしまった。  なんで、学生が、わざわざ幸四郎のプライベートな仕事場までやってきて、料理をつくったりするのか?  男どうしではあるが、このふたり、なんだか怪しいぞ。  そう思って、幸四郎のほうを振り返ると、今度は、やっこさん、十文字葵と奇妙な雰囲気になっているではないか。  居間のソファに、黙って寄り添うように座っているふたりを見て、私は、ふたたび、のけぞってしまった。  教師と学生というより、まるで恋人どうしのように見えたからだ。  だが、調理中の冷泉くんは、べつだん、幸四郎たちの挙動を気にするふうでもなく、私が顔を眺めていると、 「なにか?」  と、余裕の微笑を見せた。  冷泉くんと十文字葵は、単なる仲のいい友だちということなのか?  だが、端(はた)から見れば、このふたり、大学生どうしのお似合いのカップルにしか見えない。  幸四郎のために、レシピまで考えてきて、料理をしている冷泉くんは、単なる幸四郎の学生なのか?  十文字葵にしても、これが、真っ昼間の高田馬場のマンションでなくて、夜の公園だったりしたら、社会が許さない禁断の恋人関係にしか見えない。  私は、直観的に、この部屋の中に、奇妙な三角関係の存在を感じ取ったものの、だからどうだといわれれば、それまでの話でもあるし、妙に当惑し、なかば狼狽もしつつ、なぜか、早く冷泉くんのつくっているチキン・ナッツ・ベイグルができてくれないかと、必死に祈るような気分になっていた。 4  熱々のチキン・ベイグル・ナッツを食べて、珈琲を飲み終わると、私に気兼ねしたのか、冷泉恭介は、 「きょうはベイグルをもってきただけですから、これで、おいとまします」  と言って立ち上がった。 「私も」  十文字葵も、はや、帰りじたくである。  幸四郎がひきとめるかと思いきや、 「今日は、このとおりの来客で・・・葵くん、今度また、ゆっくり話そう」  と、やけに素っ気ない。 「あ、はい」  葵が、微笑みながら応えた。  幸四郎とちがって、私は、少しは女心を理解しているつもりだし、自分がお邪魔虫であることはわかっていた。陽気にふるまいながらも、内心、葵が、がっかりしていることは感ぜられた。  ふたりが帰ったあと、私が、 「追い返したみたいでかわいそうじゃないか」  と、幸四郎につめよると、 「なにが?」  とぼけた答えが返ってきた。 「おまえ、あのふたりと、どういう関係なんだ?」 「教師と学生の関係だ」 「冷泉くんのほうは宝塚みたいな美形だが、さすがに男だからなァ」 「利Q、いったい、なにが言いたいんだ」 「あ、いや、男のほうはともかく、おまえ、あの十文字葵って娘(こ)とはどうなんだ?」 「だから、どうもないって」 「いつもふたりでくるのか?」 「いや、葵くん独りでくることもあるよ」 「おいおい、それじゃあ、つきあってんじゃないか?」 「ちがうよ」 「安心しろ、べつに大学にチクったりせんよ」 「だから、つきあってなどいないってば」 「んなわけねえだろうが。金銭や利害関係がないのに、男のマンションに女がかよってくるとなりゃ、惚れてるか殺すつもりか、どちらかに決まってる」  一瞬の沈黙ののち、幸四郎の顔の輪郭がゆがんだかと思うと、バリトンの哄笑がはじまった。  むかしから、幸四郎は、ときどき、精密機械の歯車が狂ったかのように、大声で笑い出すことがある。ところが、それは、周囲の人間にとっては、なんとも場ちがいな笑いなのだ。  いったい、この男の頭の論理構造はどうなっているのだろう。 「なにがそんなにおかしい?」 「いや、あまりに論理の飛躍が大きすぎて」 「論理の飛躍?」 「ああ、惚れるか殺すか・・・それ以外に、葵くんが僕を訪問する理由はないのかい?」 「惚れてるか殺したいか・・・仕事以外に女がやってくるとなりゃ・・・それっきゃない」 「じゃあ、冷泉くんはどうなる? 彼も、僕に惚れているか、殺そうと思っているから、遊びに来るのかい」 「そうかもしれん」  幸四郎が、ため息をついた。 「あのふたりがやってくるのは仕事なんだよ」 「仕事?」 「そうだ。探偵業をやってるというのは、まんざら嘘でもないんだ。最近では、情報漏洩や産業スパイなど、ひとむかし前とはくらべものにならないほど、犯罪の手口がハイテク化してきている。だから、実際に、僕のような人間にアドバイスを求めにくる人もいるんだ。冷泉くんと葵くんは、僕がひとりで手に負えなくなると手伝ってくれているのさ」 「探偵助手ってェことか」 「そうだ」 「でも、それだったら、お呼びがかかったときだけ来りゃいいだろうに」 「そうなんだけどね・・・われわれとちがって、若いから、暇をもてあましているんだろう」 「暇つぶしにやってくるってか」 「そんなとこだ」 「それにしても、葵って娘(こ)は、どことなく陽子に面影が似ていると思わないか?」  完璧な失言だった。  私のなにげないコメントに、幸四郎は、さきほどの哄笑とは打って変わって、突然、顔面が蒼白になり、からだの動きが止まってしまった。  高校のとき、幸四郎には、陽子という仲のいいガールフレンドがいた。  はたからみていても、仲むつまじい、お似合いのカップルだった。  だが、幸福な日々は、長くは続かず、悲劇が起きた。  高校三年の秋のおわり。  地下鉄丸の内線の茗荷谷駅からの登校途中、陽子は、車にはねられたのだった。  横断歩道に侵入してきた車は、速度こそ遅かったものの、陽子は、運悪く頭を強く道路に打ちつけられた。救急車で病院に運ばれたが、陽子は、それきり帰らぬ人となった。  幸四郎が陽子の死を引きずっている理由がある。  われわれが若いころは、好いた者どうし、朝、駅で待ち合わせて、一緒に学校まで歩く風習があった。私のように背が低くてみてくれも良くない男は、いつも、そのような光景を見ては、うらやましがったり、ときには、からかいの言葉を投げかけたりしていたものだ。  幸四郎と陽子も、ふだんは駅で待ち合わせて、一緒に仲良く通学していた。  だが、その日、幸四郎は、待ち合わせの時間に遅刻してきたのだった。  寝起きの悪い幸四郎は、一週間に一、二回は、遅れてしまって、陽子は、時計の時刻が八時五十分になると、あきらめて、ひとりで学校に向かうのだった。  私は、今でも、あの光景を覚えている。  始業時間から十分ほど遅れて教室に入ってきた幸四郎は、いつものように、頬を紅潮させて、照れくさそうな笑みを浮かべていた。  教壇に立って陽子の事故の説明をしていた担任の教諭が、幸四郎のほうを振り向いた。  いつもなら、そこで軽めのジョークが出るのだが、その日は、青ざめた教諭の口から、言葉は発せられなかった。  静まりかえった教室中の目が、いっせいに幸四郎を見た。  やがて、すすり泣く女生徒の声が聞こえはじめ、そのすすり泣きは、徐々に周囲に伝播してゆき、やがて、教室中へと拡がっていった。  幸四郎の頭が、ゆっくりと回転して、自分の座席を見た。  となりの席に陽子の姿がないのに気づいて、幸四郎の顔は、一瞬、凍りついたようになり、ふたたび、何かを問いかけるかのように、ゆっくりと教諭の顔を見た。 「幸四郎・・・病院に・・・行ってやれ」  担任の教諭は、涙をこらえながら、唇を噛みしめた。  鞄を投げ捨て、教室を飛び出していった幸四郎の後ろ姿が、今でも私の脳裏に焼きついている。  陽子の事故については、いまだにクラスの誰もが語りたがらない。  陽子の存在そのものが永遠に封印されたかのように――。  同級生の誰もが記憶の抽斗の奥底にしまいこんでいる。  おそらく、幸四郎と一緒に仕事をしている木田も、陽子の件については、いっさい、触れないように気をつかっているにちがいない。  ひさしぶりに会った幸四郎は、高校時代と同じく、いまだに悲劇と死の翳(かげ)を背負っていた。 ――硝子の精密機械  そんな言葉が心に浮かんだ。 5  そのまた翌日も、正午すぎに玄関の呼び鈴が鳴った。 「やれやれ、よく客の来る家だな・・・おれは幸四郎の執事か? ま、勝手に居候(いそうろう)を決めこんでるんだからしかたねえか」  ぶつぶつと、文句を吐きながら玄関をあけると、知った顔が立っていた。 「あれ?」 「なんだよ、おまえか」 「なんで、利Qがここに?」  いま、私の目の前に立っている、恰幅のいい男の名前は、木田務。  高校時代は柔道部の主将をつとめていた。  あまり勉強で目だつほうではなかったが、もちまえの忍耐力が効いたのか、虚仮(こけ)の一念で東大に合格して、大学卒業後は警察に就職したのである。  眉毛が濃くて、四角い顔の男が、しわくちゃのコートを着て、すり切れた革の鞄(かばん)を小脇にかかえているところは、まるで、たちの悪い押し売りのようだ。 「うん、ちょっとな・・・まあ入れよ」  私が木田を招き入れて扉をしめると、昨日と同じように、幸四郎が、猫のように伸びをしながら、寝室から出てきた。パジャマの上に白いナイトガウンをはおっている。 「なんだ、木田か・・・事件かい?」  そういいながら、ふらふらと台所まで歩いていって、珈琲をいれるしたくをはじめた。この男は、とことん、珈琲中毒なのだ。 「上のほうから内々に事件捜査の協力を依頼してきてね」  木田は、勝手知ったる家といった調子で、鞄をテエブルの上に放り出すと、椅子をひいてきて、どっかと腰かけた。 「内々?」  サイフォンをセットし終わった幸四郎が、テエブルの向かいに腰をおろした。 「政財界に大きな影響力をもつ人物がかかわっている」 「いつもそれだな・・・僕となんの関係がある」 「まあ、聞けよ。事件の管轄は鹿児島県警だ。俺は警視庁に属しているわけだから、表から乗り込んでいっては、あちらさんのメンツがたたんのだ」 「科学捜査班は、もともと、広域捜査を科学的におこなうための組織じゃなかったのか?」 「タテマエ上はな」 「はいはい」 「わかるだろう」 「わからんね」 「県警本部からの捜査協力の依頼がないと動きにくいんだよ」 「じゃあ、鹿児島県警にまかせておけばいい」 「遅々として進まぬ捜査に業を煮やした、ある人物が、俺の上司にねじこんできた」 「ふーん」  幸四郎は、立ち上がると、ポコポコと音をたてていたサイフォンから珈琲ポットをはずして、三人分のマグカップをテエブルの上におくと、ひとつずつ、ていねいについでいった。 「僕のはメッツ、木田のはNYC(ニューヨーク市立大学)、利Qのは・・・この柄はなんだろうな」  幸四郎は呑気にマグカップの柄の説明をはじめた。  この男は、むかしからこうだ。  いきなり関係のない話に飛ぶ。  つまり、周囲の会話の流れというものを気にかけていない。  道で会っても知らんぷりなのは、空想癖が高じた結果だろうが、今も、くしゃくしゃの髪の毛の下にある脳髄は、警察内部のこまごまとした事情よりも、抽象絵画のようなマグカップの柄のほうに興味が移っているらしい。 「幸四郎、俺の話を聞いてるのか?」  木田が、呆れ顔になって、NYCというロゴのはいったマグカップを受け取った。  私はマグカップから珈琲をすすった。  淡いココナッツの味がした。 「どうだ? 美味いだろ? モーニングキッスってんだ。フレーバー珈琲だよ。きのう、学生が持ってきてくれたんだ」  幸四郎は、木田に珈琲の説明をはじめた。 「なあ、おつむの回転のほうは正常に戻ったか? そろそろ、本題に入りたいんだが」  木田がカップをテエブルにおいた。 「そのVIPの名前を聞いたら、事件に協力しないといけないわけか?」 「そういうことだ」 「いま、かかえている事件のほうはどうする?」 「こちらのほうが緊急だ」 「うーん、どうしようかなぁ。事件の概要を百文字以内で説明してくれよ。それから決めたい」  大学の講師らしく、まるで学生に宿題を出しているみたいだ。百文字以内という指定に、私は、思わず、吹き出してしまった。 「すまんが、利Q、席をはずしてくれんか?」  木田が、いきなり、警察官の目になって私を見た。 「なんでよ」  私が口を尖らせると、ゆったり構えて珈琲を飲んでいた幸四郎が、 「内々というなら、非公式な話なんだから、利Qが聞いてもかまわないだろう・・・表の話なら席をはずしてもらうけどな」  と、助け船を出してくれた。 「表と裏か・・・そんなこと言ってると、そのうち、裏の仕事で悪い奴を直接始末せにゃならなくなるぞ」  木田が、冗談とも本気ともとれる口調で、ため息をついた。  警察官僚の歯車としてまわっているときには絶対に出ないような言葉なのだろう。  私は、ふと、そんな、ガチガチで融通が利かず、ホンネとタテマエを使い分けている社会に嫌気がさして、木田は、わざと自由奔放な生活を送っている幸四郎に仕事を頼みにくるのではなかろうかと思った。  考えてみると、警察ほど口が堅い組織もないわけで、そんな組織の一員であるはずの木田が、いくら顧問とはいっても、しょせんは外部の民間人でしかない幸四郎に大事な捜査情報を漏らすことになるのだ。  幸四郎が酒にでも酔ってバーテンに秘密をしゃべってしまったりしたら、おそらく、責任を問われて、木田は職を辞さなくてはならなくなるにちがいない。  木田は、もしかしたら、心の底では、実際にそのような事態になって警察を辞めることを望んでいるのかもしれない。 「誰にもしゃべらんよ。信用しろ」  私が木田を安心させるように言うと、 「俺は、しょせん、政治的な道具にすぎない。とっかえのきく歯車なんだよ。科学捜査班なんて、いわば、忍者のようなもので、政権が交代すれば、泡のように消えてなくなる運命だ・・・いっそのこと、上司の顔に辞表でもたたきつけて、プラモ屋のおやじにでもなるか」  なんだか告白めいた応えがかえってきた。 6 「三ヶ月前、屋久島の南西の沖合に浮かぶ人工島、テラ・フロートで、五人の人間が消えた。全員、海に落ちたのか、何者かに誘拐されたのか。国家規模の実験プロジェクトであるだけにサボタージュの可能性も捨てきれない」  木田が、幸四郎に言われたように、百字以内で事件の概要をまとめた。  幸四郎は、しばらく、眉根を寄せて考えていたが、 「屋久島か・・・一度、行ってみたいと思っていた」  そう言って、木田に微笑みかけた。 「じゃあ、受けてくれるんだな?」 「ああ、こっちの事件のほうが面白そうだし、一度、縄文杉も見てみたい」  私は、このふたりの会話を聞いていて、内心、呆れてしまった。  国家規模のプロジェクトの命運を握る捜査だというのに、こんな観光気分のいい加減な男にまかせてしまって大丈夫なのか。  私は、なにやら不透明な警察上層部の政治判断の結果、しがない大学非常勤講師で、フリーターに毛が生えたような男が、縄文杉見物のついでに捜査にゆくはめになった経緯を思い浮かべて、なんだか笑い出したい気分になった。  元来が陽気で、人生そのものが喜劇になってしまう私は、このとき、まだ、これから襲いかかろうとしている身の毛もよだつような事件を予感することすらできなかったのである――。 「まずは、ゆくえ不明になった五人の素性(すじょう)から聞こうか」  幸四郎が居住まいを矯(ただ)した。  木田が、すり切れた鞄をあけて、中から書類を取りだして、 「履歴書のコピーだ」  幸四郎にわたした。  幸四郎は、すばやく数枚の紙に目をはしらせると、黙って、私に書類を寄こした。  書類は六枚ある。  五人分の履歴書だ。  企業の就職のときにつかう、町の文房具屋で売っているような書式で、顔写真が貼ってある。  伊東きよし・・・二九歳。自衛隊員。         防衛庁技術研究本部所属。  胴元和雄・・・四一歳。設計技師。数学者。  江藤ゆみ・・・三八歳。農業生産工学者。         大谷吉輝の学友。  武田克己・・・三八歳。医師。大谷吉輝の学友。  サラ・ベルトラン・・・三二歳。地球環境学者。         米国籍。オヘア大学助教授。 「防衛庁、数学、農業生産工学、医者、地球環境学・・・なにかの研究チームか?」  幸四郎が、次の書類を受け取りながら質問した。 「ミニ・ガイア計画という研究だ」  木田が答えた。 「ガイアって?」  私が訊ねると、幸四郎が、書類に目をとおしながら解説をはじめた。 「一九七二年にジェイムズ・ラヴロックという科学者が提唱した仮説だね。ガイアは、地球を司(つかさど)るギリシャの女神。全地球の生命は大気や海などの環境と共生関係にある・・・」 「共生ってなんだ?」  理系音痴の代表格であるかのように木田が質問した。  もっとも、木田は、高校時代は理科系だったし、大学に入ったときも理系だったのだが、もう一度受験をしなおして、法学部に進んだのだった。  私の周囲には、こういうおかしな経歴のやつが多い。 「共生というのは、一九六〇年代にマサチューセツ大学アマースト校のリン・マーギュリスが提唱した概念だ」  幸四郎は、落ちこぼれ科学者だけあって、学説の説明がこまかくて正確だ。 「いうなれば企業買収みたいなものさ」  幸四郎のへたな比喩がはじまった。 「また、わけのわからんことを」  私は、いつも、幸四郎の禅問答につきあわされるのだ。 「生物の細胞には、さまざまな器官がふくまれている。たとえば、情報処理センターとしての核、エネルギー工場としてのミトコンドリア、植物の場合なら葉緑素、エトセトラ、エトセトラ」 「んなこたぁ、高校の生物の時間におれも教わったよ」 「おおむかし、生物が生まれたばかりのころは、こういった細胞内器官は、おのおの独立した生命体だったらしい。いうなれば、たくさんの独立した中小企業が乱立していたわけだ。ところが、そのうちのひとつの生命体が強くなって、周囲の生命体を自分の中にとりこんで成長しはじめた。まあ、生存競争に勝つための、一種の企業提携みたいなものだね。合併、あるいは、企業買収といってもいい。生産ラインを統合したり流通を効率よくしたりできるから、生存競争には有利になる。そうやって、独立していた生命体どうしが一緒になって、複合生命体になることを共生というんだ」 「共生の定義はわかったが――」木田が首をひねりはじめた。「地球イコール大企業の生命体、われわれ人間や動植物イコール中小企業の生命体。それがガイア仮説か?」 「大企業である地球が、中小企業であるわれわれを体内にとりこんで、地球全体としての複合生命体があるということさ」  幸四郎がうなずきながらつけくわえた。 「ミニ・ガイア計画というのは、ようするに、地球環境のミニチュア版ということか?」  木田は、ようやく、納得した、というふうに安心した顔つきになった。 「テラ・フロートってのも初耳だな」  私は、テラという言葉が「地球」を意味することは知っていたが、それが、どうして、フロート、すなわち「浮かぶ」のかが理解できなかった。 「これは、一種のシャレだと思うな」幸四郎が私のほうを向いてニヤリと笑った。「テラには地球という意味もあるが、同時に、一兆という意味もある。よく『メガトン級の火薬』などという表現をつかうだろう? メガは百万のことだ。その上がメガの千倍のギガ。そのギガの千倍がテラになる。だから、テラは、巨大な、という意味にもなる。つまり、テラ・フロートというのは『浮かぶ地球』という意味のほかに『巨大な浮島』とでもいう意味があるのではなかろうか」 「巨大な人工島はミニ地球なり、か・・・そんな夢物語みたいなもんに国民の税金をつぎこむことになるのか」  木田がため息を洩らした。 「閉じられた空間で自給自足の環境をつくる実験は、これまでも世界各地でおこなわれてきた。バイオスフィア計画などがいい例だ」  幸四郎が書類を読みながら言った。    私も、木田がもってきた書類を読んでみたが、第一印象は、木田と同じで、「夢物語」にすぎない、というものだった。  テラ・フロートは、大富豪、大谷義輝(おおたによしてる)が、私的にはじめた計画で、巨大な鉄の箱を浮かぶ人工島としてつかうものだ。  幅一〇〇メートル×長さ一キロ×厚さ五メートルの「鉄板」は、屋久島沿岸に係留され、将来的には、甲板が空港および公共施設となり、内部の空間に居住施設をつくることも検討されている。  現在は、あくまでも実験段階であるが、実用化のめどがたてば、日本全国の沿岸にテラ・フロートを浮かべて、ホテル、遊園地から廃棄物処理施設まで、無尽の応用が考えられる、壮大なプロジェクトなのだ。  大谷は財界の大物であるが、政界とのパイプも太く、屋久島における実験が成功すれば、国による大規模な財政援助もとりつけている、という噂がある。  実際、大谷の情熱はすさまじく、すでに、財産のかなりの部分を、このテラ・フロート計画につぎこんでいた。  実験の第二フェーズとして、テラ・フロート二号の「甲板」には、屋久島から土や植物が運ばれて、まるで本物の島のような外見になっている。  そして、内部空間では、バイオスフィア計画の日本版ともいえるミニ・ガイア計画がおこなわれていたのだ。  ミニ・ガイアは、文字どおり「小さな地球」。すなわち、長期にわたって、ほとんど自給自足で人間が人工島で暮らす可能性を探る計画なのだ。  二〇〇〇年十月三日に、科学者をはじめとした五人の研究員が、一ヶ月の予定で、外部との連絡を絶って、テラ・フロートでの生活をはじめた。  ところが、十一月三日、予定の一ヶ月がたって、実験が終了しても、外部にはなんの連絡も入らなかった。  そこで、大谷と秘書たちが人工島に渡って、島の隅々まで捜索したが、島の表面にも内部の居住空間にも、人っ子一人いなかった。  五人の研究員たちは、忽然(こつぜん)と、この世から姿を消した・・・。  犯罪に巻き込まれた可能性も考えられたが、海賊に荒らされた痕跡はない。  なんらかの理由で、五人は、海に飛び込んだのか?  だが、いったい、どのような理由で?  巨大プロジェクトであるがゆえに、外部の組織によるサボタージュの可能性も捨てきれない。  現地の屋久島警察署による調査でも、五人の行方は判明しなかった。屋久島は、いたって平和な島であり、山岳救助なら、それなりのノウハウがあるものの、大量失踪事件など、前代未聞だったのだ。  現地対策本部の対応に不満を覚えた大谷義輝は、政治ルートをつかって、警視庁の上層部にはたらきかけ、警視庁科学捜査班にお鉢がまわってきたということらしい。  警視庁としては、鹿児島県警と無用ないさかいをおこしたくはない。かといって、大谷の要求を無下に断るわけにもいかない。そこで、民間人ではあるが非常勤顧問をしている幸四郎に白羽の矢が立った。  ま、ざっと、事件の経過と木田がやってきた理由は、こんな感じだろう。 「この大谷吉輝という人物については?」  私が訊ねると、 「相当な変わり者らしい。ここ十年ほど、公の場所には姿をあらわしたことがなく、写真もほとんどない」  木田が肩をすくめてみせた。 「んなこと言ったって、これほどの大事業をやってる人物だろう。政財界のパイプってどうなるんだ。引きこもってる奴に影響力なんてあるのか」 「そういうのは秘書まかせでいいのさ。じかに会う必要などない」 「そんなもんかね」 「十年前に火事があって、連れ合いを亡くしたそうだ。大谷本人も顔に大きな火傷を負ったらしい。それ以来、人前に出なくなったという話だ」 「なるほど」 「親戚とも絶縁状態で、東京に一人息子がいるんだが、別居している」  資料をみると、息子の名は、大谷吉章(よしあき)というらしい。小学校五年生だ。ということは、この子が産まれた直後に母親が亡くなって、父親は引きこもりはじめたことになる。  江藤ゆみと武田克己は、大谷吉輝と小学校から高校まで同じだと書いてある。 「この学友ってのは?」  木田が頭を横に振った。 「俺も書類をもらったばかりで、詳しいことはわからん」 「小学校から高校まで同じか・・・その縁でミニ・ガイア計画に参加させたのかな」 「さあな」  木田に、これ以上、質問をしても無駄のようだ。  私が、なおも、熱心に書類に目をとおしていると、幸四郎と木田が雑談をはじめた。 「そういえば、むかし、この事件に似た幽霊船の謎があった」 「幽霊船?」 「そうだ。アメリカの帆船メアリー・セレスト号が漂流していたんだ。乗組員全員が消えた状態でね」 「乗組員が消えた?」 「ああ、食べかけの食事や、途中まで書かれた航海日誌が残されていた。反乱があったような形跡もなく、乗組員は、まるで・・・何かに怯えて、いっせいに避難したかのような・・・」 「避難って、どこに?」 「海に飛び込んだのかもしれない」 「乗組員は発見されなかったのか?」 「ひとりも発見されなかった」 「奇妙だな。大洋のどまんなかで海に飛び込んだら死んじまうだろう」 「なにかの理由で、海に飛び込むほうがマシだったのかもね・・・船の上では、よほど恐いことが起きたのかもしれない・・・突飛な仮説として、宇宙人にさらわれたという人もいる」 「宇宙人? なんとも馬鹿げた仮説だな」 「その話なら知ってるぞ」  私はアーサー・コナン・ドイルのファンなので、ふたりの話に横から割って入った。 「ドイル? あのシャーロック・ホームズで有名な?」  幸四郎が興味深そうに私の顔を見た。 「そうさ。ドイルには『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という初期の短篇がある。そこに事件の一部始終が出ているんだ。なんだ、博識の幸四郎博士は読んでないのか?」  私は、高校時代に、いつも幸四郎の後塵(こうじん)を拝(はい)してばかりいたことを思い出し、なんだか愉快な気分になった。 「ふむ、シャーロック・ホームズものは、全編、読んでいるんだが、その作品は初耳だね」 「じゃあ、おまえ、どこで謎の帆船の話を知ったんだ?」 「モントリオールにいたとき、マッギネス大学で副専攻が犯罪学だったから。授業で事件を詳細に分析したんだ」 「つまり、ドイルが書いたように、乗組員の反乱があったんだよな」 「いや、僕は、授業で、この事件の担当レポーターになったので、海難裁判所の議事録まで詳しく調べて検討してみたが、反乱説には論理的な無理がある」 「論理的な無理? そんな馬鹿な! 天才ドイルの結論がまちがいだというのか?」 「いや、ドイルは素晴らしいフィクションを書いたのだと思う。だが、それは、実際の事件の解決としてのノンフィクションではなかったということだ」  私は、幸四郎の答えに驚愕した。  かりにも、ミステリーの古典中の古典といわれるシャーロック・ホームズを世に送り出した天才作家の説に対して、異論を唱えるとは! 「幸四郎、いくらおまえでも、言っていいことと悪いことがあるぞ。そんなに自信たっぷりなら、ドイル説のどこが論理的に無理があるのか言ってみろ」  幸四郎は、私がいきりたつのもお構いなしで、いたってクールな表情のままだ。 「船長のブリッグズは、妻と二歳の娘とともに乗船していたが、誰の証言を聞いても、温厚で反乱を誘発するような人格ではなかった。  積み荷だって、貴金属や財宝ではなく、ふつうの原料用アルコールだった。アルコールを盗むために反乱をおこす奴はいないだろう。  積み荷の倉庫のハッチはふたつとも壊れていて、アルコールの樽がひとつ壊れて、アルコールが流出していた。そのため、船員が酔って狼藉をはたらいた、という説もあるが、原料用アルコールを酒のかわりに呑めば、へたすると死んでしまう。だから、酔っぱらいの反乱という可能性は低い。  脱出用のボートはなかった。  コンパスは壊れていた。  航海日誌の最後には、スコールのあとに凪がきたことだけが記されていた。だが、航海日誌の最後の日付である一八七二年十一月二十五日から十日たって発見されたメアリー・セレスト号は、強風でぼろぼろになっていた」  そこまで説明しおわると、幸四郎は、私にウィンクをした。 「なんだ、気持ち悪い」 「利Q、賭けをしないか?」 「どんな賭けだ?」 「僕がテラ・フロートの事件を解決するのが早いか、利Qがメアリー・セレスト号の事件の論理的な解決策をみつけるのが早いか、勝負しよう」 「よし、受けてたってやる」 「そうそう、言い忘れていた」木田が、つけ加えるように言った。「その資料には載ってないが、現場には、奇妙な走り書きが残されていたそうだ」 「走り書き?」  幸四郎が興味深そうな顔つきになった。 「破いた紙に鉛筆で『座敷ぼっこ』と書いてあったそうだ」 「座敷ぼっこ?」 「そうだ」 「その走り書きはどこに?」 「テラ・フロートのホールのテエブルの上に無造作に置かれていたという話だ・・・単なる紙屑かもしれんがな」 「それだけ?」 「うん、その傍には、ゴルフボールが十三個転がっていたそうだが、これも、意味があるかどうかわからん」 「頭に入れておくよ」  幸四郎が静かに目をつむった。 ・湯川薫から読者への風変わりな挑戦・  幸四郎による「演繹(ディダクション)」と「帰納(インダクション)」を巡る議論は、科学論では、すでに定説となっていることがらだが、ミステリーでは、いまだに探偵が「演繹」をおこなうという「神話」が幅を利かせている。  だが、私は、幸四郎のいうとおり、探偵は、あくまでも、アブダクションによって、大胆かつ合理的な仮説をたてた上で、犯人と犯行方法に到達するのだと主張したい。  ほとんどの場合、探偵は、深層心理から沸き上がってくるイメージによって犯人の匂いを嗅ぎ分けるのであり、それが、老練な刑事たちの「勘(ハンチ)」と呼ばれるものの正体なのである。演繹や帰納の手法は、あくまでも、勘によってたてられた「仮説」を検証するために補助的に使われるにすぎない。 ――はじめに仮説ありき  それが幸四郎の独特な推理の方法論なのだ。    これまでの情報によって、読者は、犯人と犯行方法を「演繹」することはできないし、「帰納」することもできない。  犯人はひとりかもしれないし複数かもしれないしマイナーな登場人物かもしれないではないか!  登場人物全員が芝居を打っていたり、すべては語り部の頭の中の出来事だった、という可能性だって論理的には許される。  そういったことはありえない、というのは、隠れた前提条件なのであって、そういった無数の暗黙の了解なしには、厳密な演繹などありえないのだ。  そこで、読者への風変わりな挑戦である。  これまでの情報をもとに、「勘」だけに頼って、犯人と犯行方法を推理してみてほしい。いくつかの仮説を、自分に正直にたててみて欲しい。  そう、幸四郎と同じ「アブダクション」を実践してもらいたいのだ。  その上で、どの仮説が、いちばん、うまく、事件を説明することができるか、検証するのである。  もちろん、作品の中には、何カ所もヒントが隠されている。だが、ここで、ひとつだけ、大きなヒントを提供しよう。 ヒント  消えた人々は、いったい、どこへどうやって連れ去られたのか?  それがわかれば、犯人もおのずから判明する。  ただし、最終的な犯人と犯行方法が、幸四郎と微妙に食い違っても、文句はいわないでほしい。すべてが論理的に決まらない以上、最後の最後は、「勘」とセンスがものをいうのであるから・・・。 漂流密室 湯川薫 (c)Kaoru Yukawa 2001 発行所 徳間書店