『イフからの手紙』 読者へのメッセージ  この本は幸四郎シリーズの第三作目。  一作、二作が幸四郎を中心に展開したのに対して、この作品では、バイプレーヤーである十文字葵と冷泉恭介の活躍に焦点をあててみました。徐々に登場人物たちの動きがよくなって、過去の秘密なども少しでてきます。  あいかわらずトリックそのものは、特に凝っているわけもありませんが、人間の「心」の問題は、それなりに描くことができたと思っています。  そうそう、ストーリーとは関係がありませんが、推薦をしてくださった筒井康隆先生とは、天王洲アイルの「そして誰もいなくなった」の楽屋を訪問したときにお会いしました。以前にも竹内薫名義で翻訳した「科学の終焉」の監修をしてくださり、僕にとっては、文学界の恩人です。筒井先生は、舞台の演技がお上手で、テレビの演技しか見ていなかった僕は、印象がガラリと変わりました。ルネサンス人だなぁ、と感心させられました。  さて、『ディオ』と『虚数の眼』は、後半の(スピーディーな?)ストーリー展開には自信がありましたが、前半がもたついていた感があります。『イフ』は、この見本をお読みいただくとおわかりのように、導入部の課題を克服できたように思います。ただ、全体としてみると、冷泉恭介と湯川幸四郎のふたりの活躍を描こうとした点に無理があり、本の真ん中ほどで恭介の山場が来てしまい、最後の終わり方に不満が残りました。  この課題のほうは、次の『漂流密室』へ持ち越しとなりました。  『虚数の眼』を読んで、あまり評価してくれなかった読者が、『イフ』を読んで、がらりと印象が変わった、とメールをくれたのですが、「人間」の描き方が変わってきたからだと思います。  読んでみてください。  自己採点(満点は★5つ) トリック   ★★ キャラクター ★★★★ 新鮮味    ★★★ 風情     ★★★ 総合     ★★★                    プロローグ 猫   一章 幽霊   二章 人形   三章 白羽   四章 時空   五章 聖天   六章 伝説   エピローグ 門   付録 幸四郎の科学談義   参考文献 主な登場人物 十文字葵 茗渓大学学生 冷泉恭介 茗渓大学学生 湯川幸四郎 茗渓大学講師・科学捜査班アドバイザー 車大吉(くるまだいきち) レッカー屋 政市(まさいち) 車家の手伝い 治部右近(じぶうこん) 謎の老人 十文字藤一郎(とういちろう) 葵の遠縁 十文字弥生(やよい) 藤一郎の妻 松吉(まつきち) 藤一郎に育てられている少年 木田務 警視庁科学捜査班の班長 九鬼新平 木田の部下 プロローグ 猫  探偵には猫とジャズがよく似合う。  しし座流星群を見ていて、葵の脳裏には、そんなとりとめもない考えが浮かんだ。  と言ってもハードボイルドな探偵ではなく、半分アマチュアの科学探偵のようなイメージだ。 「ねえ、どうして探偵には犬やクラシック音楽が似合わないの?」  葵は隣でベランダの手すりに両肘をのせて空を見上げている恭介に訊いてみた。 「探偵と犬とクラシック?」 「そう、猫とジャズのほうがしっくりくると思わない?」 「ふーん、どうしてかな」  恭介がまじめな顔つきになって考えはじめた。気分屋の葵とちがって、恭介は、すぐに論理的な推論にはしる傾向がある。  葵は、そのまま、しばらく、シャワーのように降り注ぐ星明かりにうっとりと見とれていた。  やがて、 「探偵と猫とジャズの関係はね――」  恭介が答えようとしたとき、すぐ傍(そば)から断末魔の叫びが聞こえた。 「なに? 今の!」  葵と恭介のふたりは、恐る恐る声のした方に近づいてみた。  すると、暗闇に瑠璃(るり)色をした二つの目玉が光った。 「なにこれ?」  ベランダの奥のさらに奥。  となりのアパートとの境にあるボックス型の花壇の中にそれはあった。   ミャオ 「猫だわ」  葵が恭介の顔を見た。 「そうみたいだね」  恭介は手すりに左手でつかまって、思い切り、右手を伸ばした。手探りで小さな毛むくじゃらの玉を掴んだ。   ミャー 「大丈夫?」 「ああ、仔猫みたいだ」 「ひっかかれないかしら?」 「ほら、びっくりして震えてる」  恭介の掌(てのひら)に包まれて、オレンジ色の仔猫が小刻みに震えている。  親猫を探しているのか、目をつむったまま、しきりに鳴き続ける。 「どうして墜(お)ちたのかしら」 「さあ、しし座流星群に見とれてて肢(あし)を踏み外したんじゃないか?」 「猫なのに?」 「猫だって星に見とれるかもしれない」  恭介が星のきらめく流れる空を見上げた。  空から猫が降ってきた。 一章 幽霊 1  ――鎌倉の小坪隧道(トンネル)に幽霊が出た。  そんな噂が絶えなかった。  たしかに陰気な細い隧道で、染み出た地下水がひび割れたコンクリートの壁に異様な模様を描いて気持ちが悪かった。  おまけに、いつも湿気でじめじめしていた。  だが、最近になって改装工事が行なわれた。  もはや幽霊は出ない。  ところが、今度は、別の噂がたった。  幽霊の目撃が後(あと)を絶たないことに業を煮やした当局が、隧道の壁を掘り起こして、生き埋めになっていた遺骸を供養して別の場所に埋葬したのだという。  もちろん、当局に問い合わせても、言下に否定されるだけで、ことの真相はさだかではない。 (幽霊って女の幽霊だったのかしら)  葵の運転する90年式のシトロエンBXは快調に海辺の一本道を走っていた。  鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の方向へ左折して、踏切を渡って大町の交差点を通り抜けた。  やがて前方に隧道が見えてきた。  葵は隧道に入ると「遺体」が掘り出されたと噂される辺りの壁をちらっと盗み見るようにした。  一瞬、何か奇妙なものを見たような気がして、葵は動悸が高まるのを感じた。 (なに? いまのは――)  白鳥のようなボディに 隧道の天井から落ちた水滴がはじけて花の模様を描いた。  そのとたん――。  エンジン音が聞こえなくなった。  まるで氷の上を滑るような透明な感覚。 (幽霊を見ちゃったから? まさか――)  車はそのまま隧道を出た。  秋の日射しがまぶしい。  葵は惰性で走る愛車を路肩に止めると、後ろからくる車の列がとぎれるのを待った。 「バッキャロー、邪魔なんだよ!」  大型の長距離トラックが罵声と黒い煙幕を残して居丈高に走り去った。  葵は軽くため息をついた。  後続車の列をやりすごしてから、悠々と車の外に出て正面のボンネットをあけた。手にはボロ布を持っている。  数分間、そのままエンジンの周囲を点検していたが、やがて、大きくため息をつくと、ボンネットを閉じて運転席に戻った。グラヴコンパートメントにしまってあった携帯電話を取りだした。 「もしもし、車が故障してしまって、レッカー移動をお願いしたいんですが」  友人に譲り受けて以来、故障の連続だった。カーマニアの友人が手を入れすぎたのが原因らしい。電気系統の不具合が多く、メーターが壊れていてガス欠になったことまである。だが、不思議と愛着のもてる車なのだ。 (出来の悪い子供ほど可愛いっていうのはホントかも)  葵は、言うことを聞かなくなった愛車のステアリングを軽くいたわるように叩いてやった。   2    家に電話をかけかかったものの、祖母が出る前に切ってしまった。 (おばあちゃんを心配させるだけだわ)  葵は、そのまま座席にもたれかかって、ぼんやりとバックミラーに映る隧道の出口を眺めていた。 (本当に幽霊のせいかな)  いっこうに幽霊が怖くない自分がおかしくなって、葵はひとりでくすくすと笑い出してしまった。  笑い終わると、葵は、一転して、なんだか、急に、情けない気分になった。  高校生のころ、渋谷駅のハチ公前でデートの待ち合わせをしたことがある。  電車が遅れたかなにかで、相手が一時間も遅れてきた。  同級生に誘われて、生まれてはじめてのデートだった。  あのとき感じた心細い気分そっくりだ。   待ちぼうけ――。  ひとりでベンチに腰かけながら、いろいろなことを考えた。そのうち、だんだん、顔が俯き加減になって、なんだか、からだが固まってしまった。あと十五分も待たされていたら、おそらく涙が出てきただろうと思う。  葵が電話をしてから五分とたたぬうちに「彼」はやってきた。  葵は、一瞬、自分の眼を疑った。レッカー車が来るには早すぎる。  だが、黄色灯をぎらつかせながら、虎模様のレッカー車は颯爽(さっそう)と登場した。  窓から手を振りながら彼が叫んだ。 「西湘レッカー、只今参上!」  葵があっけにとられて見ていると、彼は、 「すぐUターンして戻ってくるからねー」  と言い残して隧道の中に消えていった。 (なに、いまの‥‥‥)  あまりに能天気な登場劇に葵の思考は一時的に停止してしまった。いわゆるエポケー状態である。  やがて、葵が車から降りると同時に、彼の黄色いレッカー車が戻ってきてシトロエンの前にピタリと停車した。  傷だらけのドアがきしむような音をたててあいて、彼が勢い良く飛び降りてきた。 「お待たせ! 西湘レッカーの車大吉です」  葵は、あっけにとられたままで、何も言うことができない。 (くるま、だいきち? そんな馬鹿みたいな名前があるの? からかってるんじゃないかしら)  葵の沈黙の理由を読みとったのか、車と名乗った青年は、 「変な名前でしょ? でも、事実は小説よりも奇なりってね。本名です。あなたのお名前は?」  と説明した。 「え? あ、十文字葵です」 「十文字……? そう……いや……あっはっは、こりゃいいや、競輪選手みたいな名前だ。おあいこってことで、勝ち負けなし」 「はぁ」  葵は、こんな調子でちゃんとレッカーができるのか、ちょっと心配になってきた。  だが、冗談ばかり飛ばしているわりには、彼の仕事は迅速かつ的確だった。シトロエンの前輪を固定して持ちあげるのにものの五分とかからなかった。いまどき珍しいプロの腕前に葵は眼をまん丸くしていた。  葵は、黙って仕事をしている車大吉をそれとなく観察してみた。  年の頃は三十歳くらい。  背が高くて細身だけれど丈夫そうな体躯。  一昔前の中学生みたいなスポーツ刈り。  精悍(せいかん)な顔つきで瞳が魅力的だ。  少し無精ひげがはえている。  さっきから笑顔が絶えないが、まんざら営業スマイルとも思えない。 「お、いい男だから見とれてるな。なーんちゃって。作業無事に完了しました! それではお宅までお送りいたしましょう」  車大吉が満面の笑みを浮かべて、うやうやしく、レッカー車の助手席の扉をあけた。 3  小坪隧道から葉山の山のてっぺんにある葵の家までは、車で十分ほどの距離だが、シトロエンを引いているレッカー車は徐行運転しかできないので、まるで遊覧船にでも乗っているような気分だった。  レッカー車の中は散らかり放題だった。三人乗りの狭い室内に、あらゆる工具やら部品やらが散乱し、座席のスプリングはやけに硬かった。  ときどき、本部から無線連絡が入った。 「一号車、ただいま、シトロエンをひっさげて逗子桜山、田越川付近を走行中、どーぞ」  大吉の声ははっきりしていたが、葵には、無線から聞こえてくる声は理解不能だった。ごにょごにょと不明朗で、まるで暗号化されているかのようだ。 「小坪隧道の幽霊より田越川のほうが怖いね」  交信が終わると、いきなり話が幽霊に飛んだ。 「え? どうしてですか?」 「だって、この近くで六代丸が首を切られたじゃあないですか」 「ろくだいまる?」 「うん、平清盛の孫」 「清盛の孫がどうして田越川なんかで‥‥‥」 「六代丸はね、文覚上人(もんがくしょうにん)が源頼朝に頼んで命を助けて自分の弟子にしたんだけど、頼朝の死後、鎌倉政権の実権を握った北条家の意向によって処刑されたんだよ。平清盛が継母の池の禅尼の嘆願によって頼朝や義経を助けたから平家は滅びた。それと同じことが鎌倉幕府に起こっては困る。後々の憂いを絶つということだね」 「わあ、よくご存じですね」 「鎌倉の周辺は史跡が多いから、いろいろ歩いて廻ったんだ。お宅、ずっとこの辺りに住んでいるんだろ? 俺みたいによそから来た人間のほうが、観光気分で歩くからね。かえってよく知っていたりする」  大吉が白い歯を見せて笑った。 「そう言われてみると、たしかに史跡巡りなんてしないですね……。あの、話は変わりますが、レッカーって特別な免許が要るんですか?」  葵が大吉に尋ねた。 「いいえ」  大吉が、やはり笑いながら答えた。 「というと普通免許でも?」 「そーなんです。みなさん、レッカーには特殊な免許が必要だと思ってるけど」 「知らなかった」 「でしょ? たまに知らないお巡りさんがいたりして騒動になるんだ」 「無免許操業で逮捕する! とか?」 「まあ、逮捕されたことはないけど」 「大変ですね」 「でも、俺は免許ならなんでも持っているから大丈夫」 「なんでも?」 「そう、全部。ほら、ご覧よ」  そう言うと、大吉は胸ポケットから免許証を取りだして葵に手渡した。     小特   けん引二   普自二  大特二   大自二  普通二   大特   大型二   普通   けん引   大型   原付    神奈川県公安委員会が許可するあらゆる種類の免許の名前が書いている。 「嘘、こんなの初めて見ました。すごいわ」  葵は、目を丸くしながら免許証を車大吉に返した。 「でしょ。結構、苦労したんだ、これが」 「全部とるのに何年くらいかかりました?」 「うーん、山奥で育ったもんで、十歳のころには無免許で運転してたからなー。でも、最初の免許をとってからは早かったよ。三年くらいかな」 「十歳で運転って、警察に捕まりませんでした?」 「俺は九州の山奥で育ったから、駐在さんのスーパーカブなど乗り放題。別に平っちゃらだったよ」 「九州ですか。でも、失礼ですけど、訛りがありませんね」 「あはは、いまどきはテレビがあるからね」 「なるほど」 「でも、田舎に帰れば田舎の言葉になるよ」 「実は私の母親も九州出身なんです」 「へェー、そういや、お宅、少し訛ってるかも。待ってくれ、九州のどこか、当ててみせるから」  信号で車が止まった。  大吉は、腕を組んで眉間に皺を寄せて唸りはじめた。その仕草が、あまりに演技がかっていたので、葵は、思わず吹き出してしまった。 「わかった、熊本でしょ」 「わー、当たり! 私、そんなに訛ってますか?」 「うん、俺より訛りがひどいよー」  狭い運転席はふたりの快活な笑いに包まれた。 (面白い人だわ)  鎌倉幕府の話と免許の数にも驚いたが、葵は、大吉のウィットに富んだ会話にも魅力を感じはじめていた。  やがてふたりを乗せたレッカー車は海沿いの国道一三四号を左折して葉山の丘陵へと入った。  急に道が細くなった。 「あの、もう少し行くと、さらに道が細くなるんですけど、けん引しながら廻れます?」 「え? 困ったな……そういうことは、早く言ってくれないと」 「あ、ごめんなさい」 「うっそ」 「え?」 「お宅、純情だなー。冗談だってば。日本国内に、俺に曲がれない道など存在しない。まかしときなって」  そう言って、どんと胸を叩いてみせた。  葵は、若いくせにやけにどっしりと構えた車大吉の横顔をしげしげと見つめた。 (いったい、どういう精神構造してるのかしら)  大吉は、まるで、けん引に生き甲斐を見出しているかのようだった。こんなに楽しげに仕事をしている人間は、見たことがない。 「この仕事、お好きなんですね」  葵がつぶやくように訊くと、大吉は、待ってました、とばかりに武勇伝を語りはじめた。 「いろいろと面白いよー。ほら、逗子にトミタのショウルームがあるでしょ。あそこに新車を運ぶ途中の運搬車が故障しちまって、俺が、けん引したんだけど、見物人がわんさか集まって、もう、お祭り騒ぎよ」 「え、あの線路沿いのすごーく細い道ですか」 「そう」 「そんな大きなくるま、けん引しながら曲がれました?」 「はっきり言って難しかったね。でも、一発で入れたよ。角度がちょっと狂ったら切り返しで一時間はかかるからね。勝負は一度きり。失敗したら冷や汗かいて、みんなの笑い者さ」 「あ、そこ右です」  葵の家は山の頂上にある。ここから先は、細い山道で、ところどころ舗装もされていない。道幅も一定しておらず、何カ所か、くびれたボトルネックみたいになっている。  レッカー車が山道の数メートル手前で停止した。 「曲がれます?」 「かなり細いな」 「でしょう? 車一台でようやくって感じ。だめならだめと言ってください。傍(そば)の空き地に駐車しておいて、明日にでもディーラーに取りに来てもらいます」 「大丈夫」 「そうですか」 「行・き・ま・す」  車大吉は、不敵な笑みを浮かべるたが、すぐに真剣な表情になって、アクセルを踏み込んだ。大きなハンドルを抱えるようにして、ゆっくりと切ってゆく。運転席の窓から身を乗り出して、後ろに引いているシトロエンが角の縁石に乗り上げないかどうか確認しながら、微調整をしている。  心地よい緊張感に、葵は、ゾクゾクする快感を覚えた。  やがて、スーっと車が進みはじめた。  虎模様のレッカー車は、ぎりぎりの角度で細い道に侵入することに成功した。 「すごい。ここ、いつも、宅配便のトラックでも曲がり損ねることあるんです。神技(かみわざ)ですね」 「難しいほど痺(しび)れる。あと三十センチ細くても大丈夫さ」  細い山道をレッカー車はずんずん登っていった。  だが、葵が祖母と一緒に住んでいる家の手前には急な坂がある。普通乗用車でもギアが一速でないと登ることができない。 「ふん、道幅よりも傾斜のほうが問題だったか」  そう言いつつ、大吉は、歯を食いしばりながら急勾配の坂を登り続ける。  葵は、ハラハラした。  エンジンの焼ける臭いがした。 「エンジン、大丈夫かしら」  葵は、心配そうな顔になって運転席のほうを見た。 「えへへ、焼けちゃうかもね」 「‥‥‥」 「でも、会社の車だからいいや」  大吉が白い歯を見せて笑った。  レッカー車は、黄色灯を回転させて、唸りをあげながら、ゆっくりと坂を登っていった。  車内には心地よい緊張感が満ちていた。  しばし、会話がとぎれた。  やがて、坂の勾配がゆるやかになり、山の頂上が見えてきた。  レッカー車は、無事に葵のシトロエンを送り届けることに成功した。葵は、まるで、自分が責任を果たしたかのように、ほっと安堵の胸をなでおろした。 「うわー、綺麗な家だな」 「でも、山のてっぺんでとっても不便」 「お車、どこにおきましょう?」 「いつも適当に停めてますから」 「じゃあ、ここが終点だ」  大吉は、そう言ってエンジンを切ると、運転席の扉をあけて砂利の上に飛び降りた。  葵が助手席の扉をあけて外に出たときには、すでに、シトロエンの前輪は地面に接していた。さきほどと同じく、迅速かつ的確に作業が進んで、シトロエンはレッカー車から切り離された。 「あの、よかったら、少し休んでいかれません? 珈琲くらいお出しできますから」  だが、大吉は、はや運転席の扉をあけて帰り支度(じたく)である。 「いやあ、休んでいきたいのはやまやまなんだけど、さっきの無線、聞いてたでしょ。次のお客さんが待ってるから、ぐずぐずしてられないんだよね」 「そうですか……」  「葵さん」 「はい?」 「今度、暇だったら、クレーン車でレインボーブリッジ渡りませんか」 「え?」 「あはは、やっぱ純情だなあ。ごめん、ごめん、冗談だってば。そいじゃ、保険会社のほうから請求書がいくと思います。ヨロシク!」  葵が返事もしないうちに、ドアがしまって、虎模様のレッカー車が動き出した。  車大吉は、あらわれたときと同じように、にこやかに手を振りながら、颯爽と退場していった。 4  翌日、葵が大学のキャンパスを歩いていると、 「葵、どうしたの、ボーっとして」  後ろから坊城玲子に声をかけられた。  痩せていて地味な優等生の玲子は、あまり化粧気がなく、髪もいい加減にたばねている。ただ、最近、アイラインだけは工夫を凝らしているようだ。 「あ、おはよう」 「やだ、もう午後二時よ。どうしちゃったの、いったい」 「うん? べつに」 「秋眠か。科学史の授業、出るの?」 「科学史? そうね」  そのまま葵が学生食堂の方に歩いていきそうになったので、玲子が慌てて声をかけた。 「授業、一号館よ」  一三七教室は満員とはほど遠い状態だった。  学期のはじめとちがって教官も学生も緊張感が薄れて惰性に流されつつある。十一月半ば過ぎると、教官は、どうやって年内に授業スケジュールを消化するか、試験をどうするか、そんなことを考えはじめる。  学生は学生で、授業に出ている少数の仲間からノートを借りてコピーする算段をはじめている。  葵と玲子が教室に入ると、百人ほど収容できる教室には、学生がまばらに座っていた。  すでに教官の湯川幸四郎が教壇で熱弁を振るっている。  葵は玲子と一緒に前から五番目の列に滑り込んだ。その前には公文洋介と冷泉恭介が座っている。  頭が切れ、長身の美形、サラサラした髪にフロストをいれているキザな恭介。かたや、ゆったり構えてばかりで「でこっぱち」の渾名を頂戴している洋介。ふたりは、対照的な性格のせいか、かえって気が合うようだ。 「あとから来た人はプリントが一枚あります」  教壇から湯川が葵と玲子をみて言った。  玲子が小走りで教壇まで行ってプリントを二枚もらって戻ってきた。 「ありがと」  葵が礼を言ってプリントを受け取ると、   アインシュタインの相対性理論と時空図  という題字が目に入った。  葵がプリントから顔をあげて教壇の湯川を見ると、黒板に向かって、一所懸命、なにやら奇妙なグラフを描いている。  x軸とy軸のあるグラフだ。  いや、xとyのかわりにtとyになっている。 (なにかしら?)  湯川がいきなり振り向いた。 「三時十分に茗渓大学一号館一三七教室の窓から三メートル離れた場所で殺人事件が起きた」  湯川の授業には比喩が多い。なかには無理のあるものもあるが、たいていの比喩はそれなりにわかりやすい。 「ちょうど、玲子くんの座っているあたりだね」  教室にくすくす笑いが広がった。玲子が死人のような顔つきになって机に突っ伏しておどけてみせた。 「玲子くん、まだ死ぬのは早い。黒板まで来て、殺人の起きた座標を描(か)きこんでくれないか? tが時間、yが位置だ」  湯川が玲子を指名した。 「はい」  玲子は、鉛筆をおいて立ち上がると、黒板の前まで歩いていって、グラフに一つの点を描きこんだ。 (グラフ1) 「ご名答。これが時間と空間の位置を示す時空図だ」  湯川に誉められて玲子が席に戻ってきた。 「先生、y=3というのは、たとえば、西の方向へ3メートルの地点、という意味ですか?」  公文が質問した。 「そうだ。同様に、t=10というのは、時計で測りはじめてから10分後という意味だ」  湯川が黒板をゆび指しながら説明した。続けて、もうひとつ、同じようなグラフを描いた。 「三時五分に茗渓大学一号館一三七教室の窓から二メートル離れた席で二つ目の殺人事件が起きた‥‥‥。と、今度は、殺人が起きた席には誰も座っていないので、僕が描きこもう」  湯川が黄色いチョークで二つ目の殺人事件の時刻と場所に印をつけた。 (グラフ2) 「さて、二つの事件は、一見、別の時刻に別の場所で起きたように見えるが、実際は、同じ殺人だったんだ。二つのグラフは、同じ一つの殺人事件をあらわしている」  湯川が教室を「の」の字を描くように見廻した。学生の間にかすかなどよめきが生まれた。 「アインシュタインの相対性理論は、非常に文学的な科学理論なんだ。同じ一つの事件でも、それを観察する視点によって見え方がちがってくる。葵くん、芥川龍之介の『藪の中』という小説を知っているかい?」  湯川が葵に尋ねた。 「え? はい。むかし読んだことがあります。たしか、京都の戦乱を逃れて落ち延びてゆく武士とその妻が強盗に襲われて、武士は殺される‥‥‥。それとも自殺だったかしら」  葵が思い出すように少し首をかしげた。 「若狭(わかさ)への旅の途中に若侍の武弘(たけひろ)と妻の真砂(まさご)は多襄丸(たじょうまる)という盗賊に騙され、真砂は手籠めにされ、武弘は死んでしまう。だが、殺人事件の犯人は誰なのか? 多襄丸か? 真砂か? それとも自殺だったのか?」  湯川が最初のグラフの下に「多襄丸の視点」、二つ目のグラフの下に「真砂の視点」と書いた。そして、黒板の空いたところに大きな?マークを描いて、その下に「武弘の視点」と書いた。 「いいかい? 視点によって事件の見え方はちがう。三人の証言は食い違う。そして、ここには、三つの視点からの見え方を統一する解釈は存在しないのだ」  湯川が教室を見廻した。 「冷泉くん、どうかな?」 「神の視点は存在しない」質問された恭介が、落ち着いた口調で答えはじめた。「つまり、絶対的な視点がない以上、真相も藪の中。というより、一つの真実など端(はな)から存在しない。グラフで説明すれば、多襄丸と真砂の二つの相対的な視点があって、相対的な事件の解釈があるのみ」  恭介が微笑んだ。  湯川と恭介は、まるで知的な遊戯を楽しんでいるかのようだ。  葵にはついていくことができない。 「公文くん、いいかい?」  湯川が公文のほうを見た。 「うーむ。殺人事件は一つなのに、それが起きた場所と時刻が見る人によって食い違うわけですね。でも、結局のところ、グラフ1とグラフ2のどっちが正しいんですか? 両方とも正しいわけじゃないでしょう」  公文が腕を組んで大袈裟に首をひねってみせた。まるで歌舞伎のような所作である。 「いいや、どっちも正しいのさ」恭介が横に座っている公文にかみ砕くように説明しはじめた。「真実は視点の数だけ存在する。絶対的な視点はないんだ。相対的な視点だけが存在して、相対的に正しい真実がいくつも存在する」  もう慣れっこなので、公文も嫌な顔をしない。教えてもらうほうが得だと割り切っているふうでもある。 「冷泉くん、黒板に出てきて、二つのグラフが同じ事件をあらわすことをみんなに納得させてもらえないかな」 「了解」  この二人は、最近、示し合わせて、授業を一緒に進めているような節がある。葵は、二人が、事前に打ち合わせをしているのではないかと疑っていた。 「ようするに、二つのグラフ上で事件の位置が一致すればいいだけのこと」  そう言いながら、恭介は、二つのグラフを重ねて描いた。 (グラフ3) 「なにそれ、二番目のグラフがひしゃげてるじゃん」  公文が異議を唱えた。 「公文、頭が固すぎるぞ。グラフがひしゃげちゃいけないって誰が決めた?」  恭介が黒板から教室のほうを振り向いて笑いながら答えた。 「だって、これまで学校で教わったグラフは、みんな四角形だったぜ」 「公文は四角四面の教育を受けてきたんだな。ご愁傷さま。とにかく、 こうするよりほか、原点と事件の起きた点の二点をうまく重ねることはできない。グラフの見栄えくらい我慢しろよ」  恭介は、そう言いながら席まで戻ると、鞄から一冊の雑誌を取りだして、 「先生、これ何だかわかりますか?」  と、表紙を湯川に見せるようにした。   鉄道ダイヤファン 「どれどれ」  興味を示した湯川が教壇から歩いてきて雑誌を手にとった。しばらく、雑誌を眺めていたが、やがて、 「これは時空図じゃないか! そうか、鉄道関係の人は、時空図なんて慣れっこなんだね」  と子供のような笑顔になって眼を輝かせた。 「ええ、相対性の話は出てこないが、鉄道のダイヤグラムは、れっきとした時空図でしょう。縦軸が駅の位置で、横軸が時間。斜めの線は、何時何分に列車がどこにいるかを示している」  恭介が説明した。 「これまで時空図の説明に苦心してきたが、鉄道のダイヤを例にあげれば良かったのか……」  湯川は、ひとりでしきりに感心している。 「あのー、盛り上がっている所に水を差すようですみませんが」公文が口を挟んだ。「そのヘンテコな図みたいの、鉄道関係の仕事をしているか、よほどの鉄道マニアでないとわからないから、あまり役にたたないんじゃないですかー?」  それを聞いた湯川と恭介は、一瞬、驚いたような表情になって顔を見合わせた。 「このクラスで鉄道ダイヤグラムが読める人はどれくらいいるかな?」  湯川が教室を見廻して訊ねた。  誰も手をあげない。  すると、湯川と恭介は、まるで異国に放り出されて途方に暮れている旅行者のような表情になって、ふたたび顔を見合わせた。 (まるで狐につままれたみたいな感じ)  葵は、湯川の講義が嫌いではなかった。  目新しい話題がたくさんあって面白かった。  だが、湯川の話は、あまりにも日常生活からかけ離れていた。  たしかに物理の実験室では、湯川の言うような奇妙な現象が観測されるのだろう。でも、それは、生きている人間の日常とはまったく縁がない。  知的遊戯の世界に住んでいる湯川や恭介がうらやましい。  葵は、窓の外の景色に視線を転じた。  晩秋の空に絹雲がたなびいて、もうすぐ木枯らしが吹いてきそうな気配だ。  木々の葉が落ちて、だんだんと世界の色が薄くなってゆく。    ――行・き・ま・す  葵は、湯川や恭介と車大吉を比較してみた。  大吉は、湯川や恭介とちがって、いわゆる「ハイソ」な出自とは思えない。でも、エネルギーにあふれていて、生身の男の匂いがした。  これまで葵が出会ったことのないタイプの男だった。  エンジンの焼ける臭い。  日焼けした、精悍な顔。  湯川や恭介が抽象的な世界に住んでいるのだとすれば、大吉は具体的な生の世界の住人なのだ。  湯川や恭介が「陰」の世界だとすれば、大吉は「陽」の世界なのだといってもいい。  黒板では、湯川が、相変わらず、奇妙なグラフを描いて熱心に説明を続けている。  窓の外は、いつのまにか風が強くなって、枯れ葉が舞っている。  葵は、黒板の上を走るチョークの音が、まるで別世界から聞こえてくる音楽のようだと感じていた。 5  祝日の午後一時。  青山一丁目で地下鉄銀座線を降りた葵は、そのままツインタワービルを出て、西麻布方面に向かって元気よく歩きはじめた。  紅葉も終わって、舗道には枯れ葉の絨毯が敷かれている。  四車線の外苑東通りをひっきりなしに車が疾走する。  なんだか雲ゆきが怪しい。  どんよりと曇った空から、今にも雨粒が落ちてきそうな気配だ。  休日ということもあって人通りは少ない。  そのまま左手に公園を見ながら歩き続けると港区図書館があった。だが、今日はあいにくの休館日だ。  かさかさという音をたてながら、葵の前を枯れ葉たちが横切っていった。  やがて、英国風の小さな二階建ての館が見えてきた。   紅茶博物館  葵は、いつも、ここまで紅茶の葉を買いに来る。二階が小さな博物館になっていて、一階の喫茶店では産地直送のおいしい紅茶を飲むことができる。  葵のお気に入りの店だ。  葵は、この店で紅茶を飲むと不思議と浮き浮きした気分になる。葵にとって紅茶は麻薬のようなものなのだ。  葵は、喫茶店に入って、注文を待つあいだ、紅茶の入れ方を書いた緑色のメモを読んでいた。 (小説家だったら、「入れ方」でなくて「淹れ方」って書くかしら)  英国伝統紅茶の正しい入れ方 1 使用する茶葉の量は、150ccの   お湯に対して、5gを目安として   下さい。   *牛乳を入れずにストレートで    召し上がるときは1・5gです 2 沸騰してからさらに5〜6分ほど   沸かしたお湯をご使用下さい。 3 蒸らす時間は5分とし、   ティーコジーを必ずポットに   かぶせて下さい。  そこまで読んだとき、窓の外を見覚えのある外套(がいとう)を着た男が通った。なんだか流行遅れのスタイルだ。 「幸四郎せ‥‥‥」  だが、湯川は、店の中にいる葵には気がつかずに背を向けて目の前の横断歩道を渡りはじめた。右手に小さな花束をもっている。 「ごめんなさい、ちょっと急用ができてしまって。すぐ戻ります」  館長に声をかけると、葵は、急いで店を出た。そして、湯川の後について歩きはじめた。  談笑しながら舗道を歩いてくる若者の一団の間を縫うようにして湯川が歩いてゆく。その後を二十メートルくらいの間隔をあけながら、葵がついてゆく。  まるで探偵が容疑者を尾行しているかのようだ。     赤坂高校  湯川は青山墓地に面した細い路地に入ってゆく。  湯川は、高校の校舎の手前で左に折れると、そのまま、青山墓地に入っていった。湯川が墓地に入るのを見届けると、葵は、慎重に墓地の入り口に近づいた。 (大丈夫、気づかれた気配はないわ)  墓地内は、墓参りの人がまばらに見られる程度で、さほど人出は多くない。葵は、湯川に見つからないように腰をかがめたり木の後ろに隠れたりしながら、湯川の後をつけた。  やがて、湯川は、古ぼけた西洋風の墓の前にくると、ていねいに花束をたむけた。  そのまま墓の前にじっと立っている。  葵は、湯川から見えないように、十数メートル離れた木陰に隠れた。葵のいる場所からは、湯川の横顔と墓の前にたむけられた花束が良く見える。  湯川は、コートの懐から煙草とおぼしきものを取り出して燐寸(マッチ)で火をつけた。  湯川が酒も煙草もほとんどだめであることを知っている葵は、この湯川の行動に少なからず驚いた。  葵が、なおも目を凝らしていると、湯川は、ほとんど煙草は吸わずに右手の指の間にはさんで煙をくゆらせている。まるで、誰かと会話を楽しんでいるような恰好だ。  だが、当然のことながら、湯川の前には誰もいない。ただ苔蒸した墓があるだけだ。  湯川は、そのまま、煙草が短くなって燃え尽きるまで、やや俯き加減の姿勢のままで立っていた。 (なにしてるのかしら)  葵がつぶやいたのと同時に、湯川が煙草の燃えさしをケースにしまうと、くるっと向きを変えて、葵のいるほうに向かって歩きはじめた。  葵は、あわてて木陰にしゃがみこんだ。身を低くして待っていると、湯川が葵の目と鼻の先を通り過ぎていった。  葵は、念のため、しばらくそのままの姿勢で木陰に隠れていた。やがて、湯川の靴の音が聞こえなくなると、ゆっくりと頭をもたげて、周囲の様子をうかがった。高校のほうに目をやると、ちょうど墓地を出ていく湯川の後ろ姿が見えた。  葵は、木陰から出て、さっきまで湯川が煙草を吸っていた場所まで歩いていった。  なんだか、心臓がドキドキした。  まだ湯川の煙草の残り香がある。  葵は、まるで怖いものを見るかのように、恐る恐る、花束がたむけられている墓に視線を移していった。   YOKO  苔むした大理石づくりの四角い墓石には、アルファベットで、そう彫られていた。葵の目は、その四文字に釘づけになった。 「ようこ?」  苗字は?   KOBAYAKAWA  そこに彫られている文字は「湯川」でもなければ、湯川の母親の実家の「本多」でもなかった。  生年は?   1966・1984  湯川とほぼ同い年である。十八歳のときに亡くなっている。  葵は、しばらくのあいだ、自分の知らない過去の敵と対峙するかのように墓の前に茫然と立ち尽くしていた。 「いったい誰なの?」  遠くから墓参りの親子連れの声が聞こえてきた。葵は、われに返ると、俯き加減になって墓地の出口に向かって歩きはじめた。  さきほどまでの浮き浮きした気分は失われていた。 (先生が誰の墓参りをしようと関係ないもん)  そう思いたかった。だが、探偵の真似事のようなことまでして湯川の後をつけた自分の行為は、その思いの逆であることは明らかだった。  湯川に対する自分の感情は、恋人に対するようなものではない。どちらかというと、幼い頃に自分を捨てた父親の代わりを求める気持ちに近かった。  だが、年上の男性に対する甘えと憧れがないといったら嘘になる。 (湯川が大学時代のガールフレンドであった三枝裕子と一緒になれなかったのはなぜだろう? ようこという人が原因なのだろうか? 自分は、どうしてこんなこと考えているんだろう)  雨がパラパラと落ちてきた。  気がつくと、葵は、さきほどの紅茶博物館の前に立っていた。  葵は、扉の硝子に、途方に暮れた、独りぼっちの女の姿を見ていた。 6  冷泉恭介が独りで住むマンションは七里ヶ浜の海に面していた。  低層三階建ての煉瓦造りの瀟洒(しょうしゃ)な建物。  すぐ目の前が江ノ電の駅になっている。  江ノ電は神奈川県の藤沢駅から鎌倉駅までを結ぶ単線の電車で、観光客に人気があるが、海岸沿いの地元民の日常の足ともなっている。  藤沢は東海道五十三次に属する宿場町で、鎌倉は源頼朝が鎌倉幕府を開いた古都である。  江ノ電は、その藤沢から鵠沼(くげぬま)、江ノ島、腰越(こしごえ)、七里ヶ浜(しちりがはま)、極楽寺、大仏や観音様のある長谷(はせ)などを経て鎌倉まで、小一時間で走るかわいらしい電車なのだ。  ちなみに、湯川幸四郎の親友で警視庁に勤める木田務の実家は鵠沼にある。  義経が足止めを食って、兄の頼朝に謀反の意思がないことを綿々と綴った腰越状は、むろん、この腰越で書かれた。その万福寺(まんぷくじ)には、毎年、義経ファンの観光客が訪れる。  恭介の住むマンションは、腰越と七里ヶ浜の間の鎌倉高校前駅に隣接している。すぐそばに万福寺のお墓があって、眼の前は見渡す限りの青海原だ。  冷泉恭介のマンションに遊びに来た葵は、駐車場に見慣れたレッカー車が停まっているのを見て驚いた。 (大吉さん?)  虎模様のレッカー車は、恭介の運転する青のフィアットをけん引してきたらしい。  葵は、駐車場の入口にシトロエンを乗り捨てると、駐車場の奥まで駆けていった。  レッカー車の前で立ち話をしていた冷泉恭介と車大吉が振り向いた。 「葵――」  恭介が言う間もなく、 「えー、どうしてこうなるのー?」  葵は大吉に話しかけていた。 「あれ? 白雪‥‥‥じゃない、葵さんですか?」  大吉が目をまん丸にして葵の顔をゆび指した。  一瞬の沈黙ののち、葵と車大吉は顔を見合わせて笑い出した。  恭介は、さすがに事のなりゆきがつかめないらしく、首をかしげて、笑い転げるふたりを黙って眺めていた。  あまりの偶然に、葵は、笑い終わったとたん、急にどぎまぎしてしまった。と同時に、内心、自分の天性の勘に感謝した。 (これって運命かもしれない)  勘ではなく運なのだと信じたかった。 「恭介の猫を見ようと思って来てみたんだけれど、こんなことってあるかしら」  葵は、恭介のほうに向き直った。 「知り合いかい?」  恭介が興味深そうな顔つきになって尋ねた。 「うん、私もこの前、引っ張ってもらったの」 「なんだ、シトロエンも故障したのかい」 「年代ものですからね」 「お互いさま」 「えー、会話の途中で申しわけありませんが、お車はどこにおきましょう?」  大吉が頭を掻きながら会話に割って入った。 「困ったな。僕の駐車スペースは二階建ての地下部分なんだ。車が動かないんだから、だめでしょう」  恭介が昇降式の駐車場をゆび指して、あきらめたように言った。 「大丈夫、キーをお借りできますか?」  大吉が不敵な笑みを浮かべて手を差し出した。がっしりとした手は油で黒く汚れている。だが、葵は、その手に人間的な暖かみを感じた。自分たちのような学生や大学の教官とちがって、実社会ではたらく男の手なのだと思った。  恭介が無言でキーを手渡した。そして、やはり、無言のまま、昇降式の駐車場の「三番」と書かれたエレベーターを上昇させた。  冷泉恭介の顔には、あきらかに不信感があらわれていた。だが、恭介が、たまに見せる、相手の頭脳を見下したかのような冷ややかな態度ではなかった。  それは、大吉の行動が読めない、といった困惑の表情のようにも思われた。恭介は、元来、無駄なことが嫌いな質(たち)なのだ。合理的に素早くものごとを処理しないと苛ついてしまう。  車庫のエレベーターが止まると、大吉は、恭介のフィアットの運転席に乗り込んで、エンジンをかけてみた。   きゅるるる  何かが空回りするような音がするだけで、当然のことながら、エンジンはかからない。  恭介が、そうれ見たことか、というような憐憫(れんびん)の情が含まれた笑みを浮かべた。  だが、大吉は、 「行・き・ま・す」  と宣言すると、ふたたびエンジンをかけた。  車がすーっと動いて、少しカーブして止まった。  また、エンジンをかける音。  今度は、そのまま恭介の車庫スペースに納まってしまった。 「そうか、セルが動くんだからギアをローに入れておけばいいのか‥‥‥」  恭介がつぶやいた。 「作業完了!」  大吉が、元気いっぱいに宣言した。  葵と恭介が顔を見合わせて笑った。 7 「わあ、きれいになったわねー。いい子、いい子」  恭介の部屋に上がり込むなり、葵は、しし座流星群とともに降ってきた猫の頭をなでた。  茶トラの仔猫でしっぽがボブテイルになっている。日本語にすると、しっぽがない。  花壇に墜ちてきたときは、泥まみれで汚かったが、冷泉家の一員となったせいか、なんだか気品まで出てきたようである。 「見違えただろ?」  冷泉恭介が台所で「自家焙煎 湘南珈琲」と書かれた真空パックから、いい匂いのする粉をカリタの漂白していないペーパーフィルターの上に落としている。  湯川に影響されてか、近頃、恭介は珈琲にうるさくなった。 「なんて名前ですか?」  大吉が尋ねた。 「エルヴィン」  恭介が熱湯を数滴ずつたらしながら答えた。 「外国の名前?」  大吉も葵の真似をして頭をなでてやる。 「ええ、いわくつきのね。エルヴィン・シュレディンガーといって、量子力学の開祖の名前」  珈琲をいれおわった恭介が答えた。 「労使力学? やけにきな臭いなあ」 「あはは、労使じゃなくて、量子。量が多い少ない、の量に子供の子。物理学の話だ」  恭介が猫のマグカップに珈琲を入れて居間のテエブルまで運んできた。 「俺は馬鹿だから、難しいことは、わかんねえや」  大吉がお辞儀をして珈琲を受け取りながら言った。だが、嫌みな調子はなく、謙遜ぶりにも好感がもてた。 「猫はお好きですか?」  葵も両手で猫のイラストの入ったマグカップを受け取りながら大吉に尋ねた。 「子供のころからね。近所のガキどもが野良猫に石ぃ投げてんのを見たら、タダじゃおかなかった。野良猫は寿命が二、三年しかないから、かわいそうでね。俺も猫吉(ねこきち)って名前の茶トラを飼っていた」  大吉が熱い珈琲をすすりながら答えた。空いたほうの手でエルヴィンの喉をかいてやっている。  エルヴィンは、気持ちよさそうに、喉をゴロゴロ鳴らしている。 「みんな、座ったら?」  恭介が立ったままのふたりに椅子を勧めた。  大吉が、小声で、すんません、と言いながらテエブルの椅子を引いて座った。 「『暗号学概論』? へえ、大学じゃ、難しいこと教わるんだなあ」  大吉がテエブルの上においてあった本を取り上げた。ページを繰って、ほお、などと感心しながら最初のほうを読んでいる。  葵が車の隣に腰かけた。  恭介がふたりの真向かいに腰を下ろした。 「それにしても、さきほどの車さばき、鮮やかでしたね」  葵が大吉を見上げるようにして言った。 「えっへっへ、あんがとさん」  大吉が暗号の本をテエブルにおいた。 「一発で車庫に入れたの、正直いって、びっくりしました。恭介、車さん、あらゆる免許を持ってるのよ。クレーン車でベイブリッジを渡ることもできるんだって」  大吉がわざとらしく、コホンと咳をした。 「葵さん、レインボウブリッジです、俺が渡りたいのは」 「あ、そうだっけ」  葵がちょこっと舌を出した。  恭介は黙って珈琲をすすりながら、ふたりの様子を興味深そうに観察している。  エルヴィンが尻を振るような仕草をした。 「お、来るつもりだな」  大吉が身構えた。といっても、首を垂れて、背中を平らにしているのである。  エルヴィンは、勢い良くジャンプすると、大吉の肩に飛び乗った。 「おい、人間エレベーターやれ」  大吉が、高い声で腹話術のようにエルヴィンの考えを代弁してみせる。 「はい、ご主人さま、どこにお連れいたしましょう?」 「うむ、よきにはからえ」 「はあ、そう言われましても……おお、あの食器棚の上などいかがでございましょう。きっと展望がよろしゅうございます」  ひとり二役でしゃべりながら、大吉は、食器棚の前までゆっくりと歩いて行った。すると、エルヴィンが、大吉の肩から棚の上に飛び乗った。 「猫吉にも、よく、人間エレベーターやってやったっけなあ」  大吉が白い歯を見せて快活そうに笑った。     8  翌日の夜、葵は大吉に呼び出されて、海岸の崖にせりだしたホットドッグ屋に来ていた。いつか、ドライヴの帰りに湯川と寄った店である。海に突き出た崖の上に廃車になったバスをおいてホットドッグ屋を営んでいるのだ。  夏はそれなりに繁盛しているようだが、そろそろ木枯らしが吹いてくる時分とあって、今は、客足もまばらだ。  葵は、待ち合わせの七時より五分早く着いて、シトロエンをバスに横づけすると、右手にある屋台へと向かった。  携帯電話が鳴った。 「もしもし」 「あ、俺です。車です。今どこですか?」 「えへへ、もう着いてますよ」 「あ、ごめん。あと五分ほどで着くけど、ホットドッグと珈琲、先に注文しておいてもらえない?」 「いいですよー」 「じゃあ」 「はーい」  携帯を切ると、葵はバスの横の売店に向かった。寒いせいか、売店の中では、ストーブに覆い被さるようにホットドッグ屋のおじさんが読書に夢中になっていた。  葵が、 「すみません、珈琲二つとホットドッグ二つください」  と注文すると、 「あいよ! 相変わらず寒いねー」  紅いバンダナ姿のヒッピーのような風貌のおじさんが立ち上がって準備をはじめた。  おじさんは、手際よくホットドッグをこさえると、熱い珈琲と一緒にお盆に載せてくれた。  葵は、お金を払うと、黄色い二階建てバスのお尻についている扉から中に入った。バスは、改造されていて、座席は取り払われ、窓に沿ってカウンターがついている。その前には丸いスツールが並んでいる。葵は、誰もいないカウンターに珈琲をおくと、そのまま、スツールに腰かけて、頬杖をついて外の景色を眺めた。  正面は、いつか湯川と昼食をとった場所で、地面においてある投光器が、まるで夜の空港の滑走路のような幻想的な小空間をつくりだしていた。  葵が腕時計を見ると、時計の長針は零時のところにあった。 「お待たせ」  振り向くと、満面に笑みを浮かべた大吉が立っていた。大吉は、仕事の時のようなつなぎではなく、ストレートのジーンズに黒の革ジャンを着ていた。 「時間ぴったりですね」 「性格でね」  そう言いながら、バスの窓から周囲をキョロキョロ見廻している。 「珈琲とホットドッグ注文しておきました」 「ありがとさん」  ふたりは、バスの外に出ると、光の交錯する「滑走路」に出た。   ちょっと肌寒かったが、熱い珈琲とホットドッグを前に大吉と一緒にいると、葵は、寒さを忘れるような気がした。  ふたりは、まるで公園のベンチで恋人が寄り添うかのように並んで椅子に腰かけた。大吉は、なんとなくそわそわして落ち着かない。 (これって、やっぱり、デートなのかな)  葵は、大吉から電話があったとき、何も考えずに承諾してしまった自分に驚いていた。だが、大吉には、まるで意識が吸い込まれていくような不思議な魅力があった。湯川や恭介とはまったく違った別世界の男の醸し出す雰囲気に葵は惹かれていたのかもしれない。 「星がきれいだね」  大吉が満天の星空を見上げて言った。 「そういえば、恭介んちのエルヴィンは、しし座流星群が降った夜、空から墜ちてきたんですよ」 「へえ、空から?」 「うん、屋上から滑り落ちたらしいんですけど」 「親猫とかいなかったのかな」 「捜したんですけど、わからなくて、仕方なしに恭介が引き取ったんです」 「そうか。あの猫、幸運を呼ぶ猫だよ」 「そうかしら」 「ああ、俺にはわかる。あいつは強運の持ち主だろ?」 「それは、墜ちたのに助かって恭介にかわいがられているくらいだから」 「ところで、葵さん、実は、俺、ちょっと事情があって、しばらく遠くに行かないといけないかもしれないんだ」 「え?」 「それで、その前に、一度、会って俺の気持ちを――」  大吉が何事か言いかけた瞬間、投光器の灯りが消えた。 「あっ」 「停電かしら?」  屋台のほうから、人の争う声が聞こえてきた。 「喧嘩してんのか?」 「怖いわ」  やがて、売店のおじさんの声が聞こえなくなった。  ふたりは、じっと耳を澄ませた。  葵は、心臓の鼓動が早くなり、急に喉が渇くのを感じた。 (強盗? どうして?)  やがて、ひた、ひた、という足音とともに屋台の方からゆらりと黒い影が近づいてきた。  それを見て大吉が黙ったまま立ち上がった。 「しつこい連中だ」  大吉には相手が誰だかわかっているらしい。  いきなり暗くなったせいか、葵は、まだ目が暗闇に慣れていないので相手の顔も姿も見えない。 「誰なの?」 「葵さん、危ないからどいていてください」  大吉が、掌で葵に遠ざかるように合図を送った。  葵は、言われるまま、二、三歩、後ずさりした。  黒い影は、そのまま黙って大吉に近づいてきた。 「ここまで追ってくるとはな」  大吉がいきなりファイティングポーズをとった。  影は、くつくつと押し殺した笑いを発した。  そのまま間合いが詰まって、大吉が黒い影と交錯した。じりじりとした緊張感に葵は叫びたい衝動にかられた。  やがて、大吉が影と格闘をはじめた。  それは異様な光景だった。  星明かりのもと、さきほどまでは気にならなかった潮騒が怒濤のように葵の研ぎ澄まされた感覚に迫ってきた。  大吉の荒い息遣いと繰り出されるパンチが空気を切る音。  すり足で地面に敷かれた砂利がたてる音。  その背景では、この空間で起こっていることに何も気づかずに夜のドライヴを楽しむ車のテールランプが蛍の光のように明滅しながら海岸通りを行き来している。 「ちくしょう」  大吉の罵声に、影が、また、くつくつと、薄気味の悪い笑いを発した。さきほどから、大吉の放つパンチは空を切り続けている。 「お遊びの時間は終わりだ」  こもった声がした。  気がつくと、葵の背後から、もう一つ、小さな影があらわれた。 「あなたたち、何者なの!」  葵は、ポシェットから携帯電話を出して百十番を押した。だが、影の手が伸びて、葵の手から携帯電話を奪い取って海に放り投げた。その影は人の形をしていたが、顔がなかった。  影は、くつくつと笑いながら葵に迫ってきた。  葵は、いいようのない恐怖を感じた。  背筋が凍りついて、からだじゅうがガタガタと震えてきた。 (殺される――)  だが、意に反して、二つ目の影は、方向を転じて、大吉たちのほうに向かって流れていった。そして、二つの影は、必死に抵抗する大吉を両脇から挟むようにして動きを封じた。 「葵さん、逃げるんだぁ!」  大吉が叫んだ。  大波が岩にぶつかる音が聞こえた。  大吉の白い顔がみるみる葵から遠ざかってゆく。二つの影は、ブルドーザーのように大吉のからだを押していくと、そのまま、柵を越えて、崖から一気に押し出した。  大吉の悲鳴とも雄叫びともつかぬ声に葵は耳を塞いだ。 「いやあ!」  葵は、目の前が白くなり、自分のからだが地面に崩れ落ちるのを感じた。 イフからの手紙 湯川薫 (c)Kaoru Yukawa 2000 発行所 徳間書店