『ディオニシオスの耳』 著者からのメッセージ  この本は湯川薫のミステリー第一作です。  幼少時から幾度も外国生活を経験してきた僕の心象風景といっていいかもしれません。  発表当時、朝日新聞のミステリ書評に取り上げてもらったほかは、インターネットを中心に酷評と拒絶反応が渦巻いて、一時、かなり落ち込んだ時期がありました。  今から思い返してみると、それは、僕が大の読書家であるにもかかわらず、ミステリーは、あまり読んでいなかったため、「仁義」を守っていなかったことへの反発だったようです。  僕はカオスの中から生まれる秩序を地でいっている作家なので、読者が幻惑されるほどの錯綜したトリックと複雑な筋書きを好みます。  最近では、僕も毒気が抜けて、ややカオス性を薄めつつありますが、この処女作は、あとさき考えずに、ありとあらゆるものを詰め込んだ感があり、おもに若い読者に支持されてきました。    作品は、プロローグにおける十年前の殺人事件からはじまり、不気味な復習劇へとつづきます。  前半は、ちょっと停滞気味ですが、真ん中辺から、ジェットコースターのように勢いがついて、最後は読者を退屈させることはないと思います。  あと、最後の余韻は、是非、味わっていただきたいと思います。  この作品は、電車の行き帰りでは読めません。筋とトリックが錯綜しているため、「難解」だといわれますが、10時間ほどかけて読んでいただければ、そんなに難しいわけでもないことがおわかりいただけると思います。  ただし、ペンローズの方程式の説明が足りなくて、そこに関しては、読者に不親切であったと反省しています。いずれ、機会があれば、手を入れたいと思っています。  原題は『アルファロメオでグッドバイ』でしたが、僕自身が、アルファロメオではなく、フィアットを買ってしまって、オーナーでもないのにこういう題名はよくないと考えていたら、編集サイドから、「アルファロメオは森博嗣さんの作品に出てくるから」といわれて、やめにしました。  いま準備中の歴史ミステリーの題名にしようと思っています。  自己採点(満点は★5つ) トリック   ★★ キャラクター ★★★ 新鮮味    ★★★ 風情     ★★★ 総合     ★★★ プロローグ 卒業 一 ―――一九八九年三月、モントリオール  昼下がりの芝生には、かすかに雪が残っている。白と緑のまだら模様を縫うように、ちょろちょろと栗鼠が移動する。窓を開けると、外から、うるさいほどの小鳥のさえずりと郵便配達人に吠えかかる犬の鳴き声が聞こえてきた。   連続猟奇殺人事件の謎   ケベック独立軍復活か 「えらい物騒やなぁ」  ソファーの背によっかかった榎本譲治が、モントリオール・ガゼットの一面の見出しを読みながら、独り言のようにつぶやいた。  室内では、本をめくる音と紙にペンを走らせる音のほかは、ときおり、誰かが珈琲をすする音がするだけだ。  窓越しに侵入した木漏れ日が新聞の上にかかり、まだらの影がちらちらと動く。榎本は、次第に活字に集中できなくなって、やがて、ふあーっと大きな欠伸をした。 「おい、ジャクソン取ってくれ!」  Tシャツにねじり鉢巻きの湯川幸四郎の声が室内のけだるい雰囲気を吹き飛ばした。 「了解!」  黒いタンクトップ姿の榎本が、目をぱちっと開けて、膝の上の新聞を放り出すと、紙くずや本で散らかり放題の床に四つん這いになった。すぐに、埋もれていたジャクソンの電磁気学の教科書を探し出して、湯川に手渡した。 「ジョー、プリンストンの問題集探してくれ! それから、珈琲おかわり!」  今度は、ぼさぼさ頭によれよれシャツを着た財部健太郎が、机に向ったまま、振り向きもせずに叫んだ。  榎本譲治は、文句も言わずに隣の部屋の本棚から物理の問題集を持ってきて財部に手渡すと、すぐさま階段を一気に駆け降りていった。  マッギネス大学のフラタニティ、デルタ・デルタ・デルタの建物の中は、卒業試験を控えた四年生たちの直前の追い込みで正念場を迎えていた。  フラタニティは、少人数の男子学生が一軒の家を借りて共同生活をする北米独特の風習だ。みんなで一致団結して、パーティーを催したり、試験勉強に協力したりする。  デルタ・デルタ・デルタの現役メンバーには、アメリカ人やカナダ人のほかに三人の日本人がいた。  明日は理系学部の試験最終日だ。すでに最終試験を終えた文系学部で手空きの学生は、資料を集めたり食事をつくったりして、仲間が無事に試験にパスできるように手伝うのである。 「先輩、熱い珈琲、はいりました!」  二段跳びで階段を上がってきた榎本が、煮えたぎるようなブラックの入ったマグカップを財部の机においた。 「ありがとう」  徹夜に近い追い込みに財部の顔はげっそりと痩せて見える。ノートや教科書が山と積まれた机の前の壁には、   二割は死ぬ!  という真新しい手書きの標語が貼ってある。 「先輩、この二割ってなんですか?」  一服して苦味の効いた珈琲を喉に流し込んでいる財部に榎本が尋ねた。 「あ、これ? 試験に落ちる確率だよ」 「そないなもん、あるんですか?」 「この大学ではな、一年生の数と四年生の数が全然違う。一年ごとに学年の約二割がふるい落とされて退学していくからだ」 「へえ、知らなかった」 「キックアウト制っていうんだ。文字どおり、蹴落とされるわけ。お前さんは、日本の大学に籍をおいて一年だけ来てるからな、単位落としても命にゃ別状ないだろ」 「ははは、でも、二割なら楽々クリアでしょう」  隣の机で練習問題をやっていた湯川が横を振り向いた。 「譲治よ、単純計算で、一年に二割ずつ死んでいくんだ。四年たっても生き残っている確率は?」  経済学専攻の榎本は、しばし考えてから答えた。 「八0%を四乗すればいいんですから、ええと、2乗で六四%ですから、ええと、」 「四乗で四0・九六%だ」  湯川が暗算で答えを教えた。 「つまり、そういうことよ。希望に胸をふくらませて入学しても、無事に卒業できるのは四割ちょっとなわけ」  財部が補足する。 「でも、その代わり、日本と違って受験地獄がないんじゃないですか?」 「じゃあ、お前、日本の入試で死ぬほど勉強したか?」  湯川の言葉に、そんなムキにならなくってもいいじゃん、という顔で榎本が口をとんがらがせた。 「まあ、幸四郎みたいにIQ一八0で優等生クラスの奴は死ぬ心配はないがね、俺みたいに年間平均得点がボーダーラインすれすれだと、最後の最後で撃沈ってこともあるわけよ。だから、譲治よ、お願いだ。腹ペコの私に熱い珈琲のおかわりとベーグルを持ってきておくれ」 「はい!」  榎本は、早くも空になった財部のマグカップを受け取ると、兵隊のように敬礼をして、再び階段を駆け下りていった。   二  蔦のからまった煉瓦造りの講堂。  周囲には、大きすぎる国土を持て余しているかのように、どこまでも、青々とした芝生が植えられている。その芝生の上を尻尾の肥大した鼠としかいいようのない栗鼠がちょろちょろと走り回っている。  講堂の鉄の扉がバタンと開いて、わあっという歓声とともに、四角い帽子をかぶった黒マント姿の学生たちがいっせいに飛び出してきた。  学生たちは、奇声を発しながら、今、学長の手でかぶせてもらったばかりの帽子をフリスピーのように空に投げ上げた。講堂のまわりは、一瞬にして、飛び交う角帽と笑い声で派手なお祭り騒ぎになった。 「よし、このままディオニシオス倶楽部まで走るぞ」  やけに元気のいい財部は、仲間に向って怒鳴ると、芝生の中を一人で大学の西門の方角へ走りはじめた。 「まったく、せっかちなんだから先輩わぁ。ガッチャマンじゃあるまいし、こんなカラスみたいな格好で走れるはずないじゃない」  森久美子の言葉に残りの三人の仲間が笑った。  四人は、マントを貸衣裳屋の出張トラックに返すと、西門に向って、ゆっくりと歩き始めた。 「ようやく終わったって感じだな」  湯川幸四郎がため息をつく。 「ほんと、なんだか力が抜けちゃった」  湯川と並んで歩きながら、三枝裕子が長い髪の毛を両手でかきあげた。  湯川と裕子は同じ物理学科の優等生クラスに属していた。  二人の後ろを政治学科の立原まゆみと経済の森久美子が無言で並んで歩いている。まゆみは主専攻が経済学だが、副専攻は音楽史だ。  いつもは、とりとめのないおしゃべりに興じる二人だが、今日は、まゆみも久美子も、なぜか、口をつぐんだままだ。卒業の感動で胸が一杯ということだろうか。  湯川は、二人に語りかけようと後ろを振り向いた。だが、そこには、意に反して、久美子のこわばった顔があった。湯川が、思わず立ち止まると、湯川の視線に気づいた久美子が、あわてて作り笑いをした。 「久美子、どうした、そんな怖い顔して」 「いやん、ちょっと考えごと!」 「久美子でも人生に悩むことがあるんだ」  湯川の言葉に、ようやく四人が打ち解けて笑った。  四人が大学西門からすぐの所にある石造りの二階建ての一軒屋、学生組織のディオニシオス倶楽部に着くと、階段の所に榎本譲治がしゃがんでいた。 「お待ちしてました!」  立ち上がって、ほら、と大学の紋章の入った真新しい焦げ茶の革ジャンを披露した。 「あら、マッギネス特製の革ジャンね。番号49かあ。結構、似合うじゃない」  裕子が褒めた。 「あんたさあ、もう三月よ。すぐに暖かくなるんだから、着る機会ないんじゃない?」  久美子が冷や水を浴びせた。 「えへへ、こんなの、日本じゃ、手に入らないから。ところで、この紋章の三羽の鳥はなんでしょか」  榎本の問いに、三人は顔を見合わせた。誰も大学の紋章の意味など考えたことがなかったのだ。  しばしの沈黙の後、湯川が、手をパチンと鳴らして答えた。 「わかった。その鳥はマートレットだよ。イ・ワ・ツ・バ・メ。大学の創設者がマッギネス家の四男坊だったんだろう。欧米では、マートレットは、四番目の子供の紋章と決まっている」 「へえ、そうなんですか」  榎本が感心した。  それを見ていた森久美子が、名前や記号の由来なんてどうでもいい、という感じで、わざとらしく欠伸をした。  榎本は、四人の後ろについて歩き始めたが、その視線は、立原まゆみの背中にじっと注がれていた。  赤い絨毯の上を歩いて玄関を入ると、受け付けの前には、グリーンの制服の二の腕にケベック州のワッペンをつけた男女がいて、倶楽部の責任者らしき人物と口論している。  ケベック州は、カナダ最大の州だが、英語系よりもフランス語系の人口が多く、公用語もフランス語である。州都は城壁に囲まれ、ヨーロッパ中世の趣を今に伝えるケベック市。経済の中心はモントリオール市だ。  ケベックは、もともと、ルイ十四世時代にフランスの植民地として開かれた。英仏植民地戦争が激化した一七五九年、英国のウォルフ将軍率いる軍勢がケベック市の西側の断崖をよじのぼって市内に侵入し、モンキャルム将軍麾下のフランス守備隊を奇襲。両将軍ともに戦死という壮絶な戦いの末、英国が勝利をおさめた。以来、英語系とフランス語系の確執がはじまった。  一九七0年代には、フランス大統領ドゴールの訪問により、一気に英系支配からの独立が叫ばれるようになった。時の州政府の大臣の誘拐殺人事件を機に、連邦政府首相、ピエール・トルドーがモントリオール全域に戒厳令を敷き、街は戦車と兵隊で埋め尽くされた。  トルドーは、強権発動によって国の分裂と内戦の危機を救った反面、弾圧された独立派の恨みを買うこととなった。  その後、モントリオールは、オリンピックの開催によって、明るい国際都市の顔を演出することに成功したが、民族的な紛争の火種は、絶えるどころか、確実に地下に沈潜していった。 「だから、DIONYSIUS CLUB という表示は、法令違反だと言っているんです。即刻に改善を求めます」  制服の男が強い口調で言った。 「ここは、大学の創立以来の伝統を誇る由緒あるクラブです。大学は英語系ですし、学生の大半もフランス語はしゃべらない。わざわざフランス語表記にする意味がないでしょう。LE CLUB DIONYSIUS じゃ、語順をひっくり返しただけでしょうに」  クラブの責任者が反論する。  湯川たちは、受け付けで記帳すると、言い争いをしている三人には構わずに、中に入った。 「やあねえ、いまの、言語警察でしょ」  久美子が不快感をあらわにして言った。 「民主主義国家で言語を取り締まる警察組織が実在するのは、世界広しといえども、カナダのケベック州くらいなもんだろう。看板などの表記の五十パーセント以上はフランス語でなくちゃいけない。ここの看板も、いずれ、英語とフランス語の併記になるだろうね」  湯川がケベックの言語法の解説をした。 「その看板をつくる経費はどこが出すの?」  裕子が尋ねた。 「われわれだろう」  湯川があきらめ顔で答えた。    ディオニシオス倶楽部の中は、イギリスの貴族の館を思わせる造りで、天井のスピーカーからは、かすかにクラシック音楽が流れていた。  二階のホールは、丸天井のドームになっていて、ダンスパーティーなどが催されることも多い。  五人が一階の奥の個室に入ってゆくと、中には、カラスのマントを着たままの財部と、ヨットの船長の格好をしたデルタ・デルタ・デルタの会長の法学部四年生、ジャック・ド・メゾヌーヴがソファに腰掛けていた。ジャックは生っ粋のモントリオールっ子で、フランス貴族の末裔らしく、趣味はヨット遊びだ。大学では演劇部に属しているため、みんなのために仮装用の小道具を用意してきていた。 「ハイ、ミナサン、ヘンソウシテクダサイ」  そう言うと、おかしな中世風のマントや、口髭、お化けのマスクなどを紙袋から取り出してみんなに配り始めた。 「遅いぞ皆の衆、ほれ、予が、すでにビールも食事も下僕に用意させたわ」  金色の髭をつけて王冠をかぶった財部が、へたな貴族の物真似をして言った。  真ん中のテーブルの上には、ビール、フルーツカクテルなどの酒類のほかに、メイプルシロップがたっぷりかかったサーモンなど、ケベックの郷土料理が並んでいた。 「それでは、皆の卒業を祝ってカンパーイ!」  財部の音頭で七人が黒ビールのジョッキを高々と上げてカチャカチャッと突き合わした。  乾杯が終わると、 「はい、チーズ!」  フラッシュがたかれて、三枝裕子が、持ってきたカメラでみんなの写真を撮った。 「今度はわたしが撮ってあげる」  裕子からカメラを受け取って、立原まゆみがシャターを押した。  いい加減な仮装をした仲間たちの姿がフィルムに記録された。  カメラを向けられて緊張したのか、不思議なことに、湯川と裕子の顔だけが笑っていた。 「せんぱーい、そのマント、どうするんですかあ?」  久美子が笑いながら尋ねた。  財部は、湯川の高校の二年先輩だ。一浪一留で最年長なため、みんなから「先輩」と呼ばれている。 「そうだな、我を忘れて、ついつい持ってきてしまった」  早くも酔いが回ったのか、財部は、隣でビールをがぶがぶ飲んでいる榎本を見て、 「おい、しゃくれ君、このマントを君に進呈しよう」  と言った。 「先輩、しゃくれ君って呼ばない約束でしょ。これでも、結構、気にしてるんですから」  榎本が抗議する。 「先輩、みんなのこと変なあだ名で呼ぶんだからぁ。あたしのことも陰でプードルって言ってるそうじゃないですか」  森久美子が、ショッキングピンクの唇を尖らせながら、人指し指をたてて怒ってみせた。 「ははは、久美は髪型がプードルみたいだからな。そんでもって裕子は髪型がキタキツネで、譲治は顔がしゃくれてる。幸四郎は顔と頭はいいが女性恐怖症だからオイディプス王。ジャックは女癖が悪いから金髪にもかかわらず青髭じゃ」 「ソンナ、ヒドイデスネ」  日本語学科の授業をとっていて片言の日本語をしゃべるジャックが反論する。 「みんな、これからどうするの?」  立原まゆみが気を利かせて話題を変えた。ふくよかな日本人形といった印象を与えるまゆみは、美しい上に気が優しく、日本人留学生のマドンナ的な存在だった。 「そういうまゆみは?」  久美子が訊いた。 「わたしは、日本に帰って、ゆっくり就職先探すわ」 「ふうん、あんた、就職なんかしなくても生きていかれるんじゃない?」  久美子がつぶやくと、まゆみが眉をしかめた。 「先輩はどうするんです?」  湯川が皿にサーモンを取りながら訊いた。 「そうさなあ。俺は、お前みたいに理数系の頭ないみたいだからな、物理はあかんだろ。できれば経済にでも転向して、MBA取って、後はそれから考える」 「幸四郎さんは、行き先、決まったの?」  裕子が幸四郎にビールを注ぎながら尋ねた。 「うん、とりあえずはニューヨーク市立大学の大学院に行って、超ひも理論をやろうと思ってる」 「え、いいなあ。あたし、まだ行き先、決まらないんだ」 「ゆっこは、大丈夫だよ。大学院のフェローシップとったじゃないか。じきに受け入れ先が見つかるよ」  湯川が裕子を元気づけた。 「ジャックはどうするんだ」  財部が部屋の隅のソファーにへたりこんでいるジャックに訊いた。ジャックは金髪で背が高くハンサムだが、カナダ人のくせに滅法酒に弱い。 「あん? ボクデスカ。ボクハ、ワカラナイ‥‥‥」  そう言うと、ジャックは、なぜか、とろんとした焦点の定まらない目で、部屋の反対の隅でしゃべっている立原まゆみと三枝裕子の方を見つめた。 三  湯川と三枝裕子がディオニシオス倶楽部の扉をあけて外に出ると、三月だというのに、いきなり冷気にパシッと顔を叩かれた。  モントリオールは、日本の札幌とほぼ同緯度に位置し、昼と夜の温度差が著しく大きい。  三角屋根のついた時計台の針が零時を指している。 「おお、さむ、三月でこれだから嫌んなっちゃうよ」 「でも、モントリオールの冬もこれで最後かと思うと、ちょっぴり寂しい気もする」 「そうかい、僕は、もうこりごりだね。早いとこ、おさらばしたいよ」 「先輩たち、大丈夫かしら」 「そうだねえ、まゆみの所だったら、高級アパートだし、多少、騒いでも壁が厚いから平気だと思うよ」 「あたしたちだけ、二次会行かなくて、みんな、気を悪くしないかしら」 「あの連中だったら平気だよ。僕たちは、酒飲んでも、かえって醒めちゃう質なんだから仕方ない。時々、みんなみたいに我を忘れてハメをはずしたいって思うことがあるよ」  大学から街の中心部を抜けてモンロワイヤル山に向って数分も歩くと、粋なブティックやレストランは姿を消し、ごみごみとした下宿ビルの立ち並ぶ学生街になる。ここら辺は、さすがに賑やかで、まだ、あちこちのアパートでパーティーが開かれているらしく、どこからともなく音楽や笑い声が聞えてくる。  三枝裕子は、湯川より一つ年下である。ボストンの高校からマッギネス大学にきたのだが、高校と大学で一年ずつ跳び級をしている。専攻は原子核物理だが、副専攻の声楽やピアノの演奏も玄人はだしだ。 「ねえ、譲治って、結構、遊んでるのよ、知ってた?」 「あいつは、気楽な遊学だから」 「でもね、私、先週、通りすがりにルフェーヴル公園で譲治をみかけたの」 「ホント?」 「うん、だから、フラタニティに麻薬とか持ちこんでないか心配になって」 「困ったな。去年、アルファ・ガンマ・オメガのメンバーがコカイン所持の疑いで警察沙汰になって、三十年の伝統のあるフラテニティなのに解散させられたよね」 「大丈夫だとは思うけど、あの子、顔に似合わず油断できない感じがする」 「そうか、あと一週間くらいだけど、気をつけてみるよ」  二人は、見慣れた建物の前までくると足を止めた。  二人は、舗道の上で向き合うと、よくアメリカの大学生の親友同士がするように、手から独自の合図を繰り出して、最後にパンと互いの右手を打ち合わせた。その符牒は、二人だけにしかわからない手話で、「IQ一八0」を意味していた。  三枝裕子は、小学校の時、担任の先生に呼ばれて自分のIQを教えられた。IQは一七七だった。どこの小学校でもやっているIQ検査だが、ふつうは本人に数値を教えたりしない。だが、その担任は、裕子にIQを教えた後で、長々と人生訓めいた説教をした。幼かった裕子は、なんで自分だけがそんな目にあうのか、理解できなかった。  幸四郎の父方の祖父は、世界的な物理学者だった。幸四郎は、生まれつきIQが高かったため、周囲の期待も大きかった。外国の大学に進学した理由の一つは、目に見えないプレッシャーからの脱出だったのかもしれない。  幸四郎も裕子も、別にIQ神話など信じているわけではなかった。だが、二人は、半年ほど前から、妙な親近感をいだくようになった。それは、互いの秘密を知った、孤独な境遇の者同士の連帯感のごときものだった。  もっとも、湯川と裕子の関係は、今にも壊れそうな、微妙なバランスの上に成り立っていた。  湯川は、なぜか、女性とうまくつきあうことができない。友達関係なら平気なのに、相手を女性として意識したとたん、恐怖にかられて金縛り状態になる。  裕子も、そんな湯川の心情を理解しているのか、あくまでも仲のいい友達として振る舞っていた。  物音を聞きつけて、起きたのか、近所で飼われている犬が吠え出した。  三枝裕子と湯川幸四郎は、二人にしかわからない儀式に笑いこけながら、学生街の中ほどにある、向いあった建物の中に、それぞれ消えていった。 四  三時間後、湯川は、フラタニティの二階の自室のベッドでランプだけつけて探偵小説を読んでいた。真っ暗な部屋の中は、柱時計のカチカチという音だけが妙に大きく反響していた。  ベッドサイドの電話がけたたましく鳴った。  湯川は、一瞬、心臓が止まるのではないかと思ったが、小説を枕の上にふせると、ゆっくりと黒い受話器を取った。 「あたし、裕子! 今、まゆみから電話があって、なんか様子が変なの。お願い、一緒に来て!」  うわずった裕子の声が聞えてきた。 「え? あ、うん、わかった、今すぐ下に降りる!」  湯川は、電話を切ると、入口でスニーカーをひっかけて、脱兎のごとく階段を駆け下りた。    十分後、二人は、立原まゆみのアパートの入口に立っていた。  湯川が呼び鈴を押したが、中から返事はない。三回鳴らしたところで、裕子がジャンパーのポケットから合い鍵を取り出した。 「鍵をなくしたりした時のために、お互いに合い鍵をもってるの」  裕子は、そう言うと、素早く鍵穴に鍵を差し込んで勢いよく左に回した。  カチャッという音がして、緑色のドアが内側にスーッと開いた。中は真っ暗だ。アルコールや煙草の臭いもしない。部屋の中から廊下に向って、冷気が流れてゆく。部屋の窓が開いているのだろう。二人が部屋の中に入ってドアを閉めると、ヒューッという喉笛のような風の音がして、ドアはガチャンと閉った。 「まゆみ?」  裕子がまゆみの名を呼びながら、暗い部屋の中へ手探りで入ってゆく。湯川は、入口のドアの横にある電灯のスイッチを入れた。とたんに部屋が昼間のように明るくなった。 「まゆみ? いるの?」  裕子と湯川は、部屋の中央まで足早に歩いて行った。居間は、さっきまでパーティーをやっていたとは思えないほど、いやにきれいに片づいていた。  裕子が、居間の右奥の寝室のドアを空けて中に入る。 「まゆみ? いるなら返事して! 幸四郎さんも一緒よ」  裕子の後から部屋に入った湯川が寝室の電灯のスイッチを入れた。寝室のスタンドの傘からやわらかい光が洩れた。奥の窓が十センチほど開いている。ベッドは、きちんと整頓され、ベッドカバーがかかっており、使われた形跡はない。湯川が念のため、ベッドの下とクローゼットを調べたが、特に異常はなかった。  裕子は、寝室を出ると、入口の左にあるバスルームに走っていった。湯川も後を追う。  湿った空気と石鹸の匂いがした。裕子が電灯をつけると、どうやら、まゆみが風呂に入ったあとらしく、バスタブは水で濡れていた。シャワーカーテンは引いてあり、タオルかけのバスタオルがなくなっていた。 「どこに行っちゃったの‥‥‥」 「電話で、まゆちゃんは泣いてたって言ったよね。でも、アパートから電話してきたかどうかわからないよ」 「でも、でも、警察に電話したほうが、」 「いや、まだ、何かあったって決まったわけじゃない。とりあえず、先輩たちに連絡してみよう」 「うん」  湯川が裕子の肩を抱くと、小刻みに震えている。 「とにかく、落ち着くんだ。ほら、腰掛けて」  裕子は、ソファーに腰掛けると、両手で顔を覆った。湯川は、キッチンの壁にかかっている電話の受話器を取って、財部の電話番号を回した。  呼び出し音が一回、二回、三回聞こえた‥‥‥  そのとたん、後ろから、きゃあ、という裕子の叫び声が聞えた。  湯川が振り向くと、いつのまに歩いていったのか、裕子が、開け放たれたベランダのドアの前に立ちすくんで、わなわなと震えている。  湯川が駆け寄ると、 「いやあ!」  裕子は半狂乱になって拳で湯川のからだを叩きながら叫び始めた。  湯川は、裕子のからだを抱き止めたが、裕子は、泣きじゃくりながら意味不明の言葉を叫ぶばかりだ。 「ゆっこ、落ち着いて、しっかりしろ! 何があったんだ!」 「あ、あそこに、」  裕子は、湯川の胸に顔をうずめたまま、右手でベランダの向こうを指さした。  湯川は、恐る恐る、むせび泣く裕子の指さす先に目を向けた。心臓の鼓動が高まる。  十階のベランダからは、少し下の方に隣の教会の屋根が見えた。そして、十数メートル先の、その教会の尖塔の避雷針に、それは、突き刺さっていた。  最初、湯川には、その光景が何を意味するのか、わからなかった。   もずの速贄‥‥‥?  だが、次の瞬間、湯川は、強烈な眩暈を覚えた。口の中が酸っぱくなり、胃の腑が突き上げられるのを感じた。  それは肌色の人間の形をしていた。  尖塔を下から照らす灯の中に浮かび上がって、一糸纏わぬ、まゆみのからだは、仰向けのまま、ぐったり息絶えていた。  頭の上に投げ出された両手の指は、何かを掴もうとしているかのように醜く折れ曲がっていた。  背中から臍へと槍のように避雷針が突き抜け、血が、幾筋にも分かれて、若竹色の尖塔からしたたり落ちていた。  魂を失った、まゆみのうつろな黒い瞳は、まるで死に神に命乞いするかのように、じっとこちらを見つめていた。  湯川と裕子は、ベランダの入口で、ひしと抱き合ったまま、なすすべもなく、その凄惨な光景にじっと見入っていた。  気がつくと、春の淡雪が、ちらちらと落ちてきた。  それは、天が施した、まゆみの死化粧のようだった。 五  モントリオールのダウンタウン区を管轄する第十五分署は、まゆみのアパートから山の手方向に歩いて五分くらいのところにある。  古い煉瓦造りの三階建てで、教会と同じように、屋根は、急な勾配のついた、若竹色のトタンだ。  降雪の多いモントリオールの建物は、みな、おとぎ話の世界のようにとんがっている。  狭い部屋の中では、二人の刑事がフランス訛りの生ぬるい英語で湯川を訊問していた。会話の一部始終は、速記係ではなく、部屋に設置されたテープレコーダーに記録される仕組みになっている。  よくテレビに出てくる、被疑者の顔に当てて自白を迫るための裸電球のスタンドなどない。煉瓦壁をペンキで白く塗っただけの、なんとも素っ気ない室内風景であった。 「じゃあ、もう一度尋ねるよ。君は、同級生の三枝裕子からの電話で立原まゆみのアパートに同行したんだね」  初老の刑事は、テリー・サバラスみたいに頭がつるつるで、茶色の地味な背広を着ている。 「はい」  湯川が答えた。 「立原まゆみが助けを求めてきた電話は、直接は聞いていないわけだ」 「はい」 「夜中の三時半なのに、君は、起きていた」 「はい、寝床で探偵小説を読んでいました」 「探偵小説ねえ」  それまで黙っていた若い方の刑事が煙草に火をつけながら言った。髪がふさふさして、生意気そうに鼻がつんと上を向いている。 「君は、いつも、そんな時間まで起きてるのか?」  とんがり鼻は、煙草の煙を口から吐き出した。 「僕は、零時前に寝ることはほとんどありません。徹夜することもあります。あの日は、ハメをはずして、パーティーで酒を飲みすぎました。泥酔すると頭がガンガンしてきて寝つけなくなるんです」  湯川がしんぼう強く答えた。 「泥酔状態なんて、樽でも空けたのか?」  とんがり鼻が質問した。 「あなたがたコーカサス人種と違って、日本人の四割は、アルデヒド分解酵素のALDH2が欠乏していて、ちょっと飲んだだけで悪酔いするんです」  湯川が説明した。 「アルデヒド?」  とんがり鼻が、嫌なインテリだ、とでも言いたげな目つきで湯川を睨んだ。 「ええ、酒を無毒にするには、まずアルコールをアセトアルデヒドに分解して、次に、アセトアルデヒドを酢酸、さらには水と二酸化炭素にします。アルデヒド分解酵素には二種類あって、ALDH1とALDH2と呼ばれています。私には、遺伝的にALDH2がないんですよ」  西洋人は、日本人の子供の蒙古斑点を見て幼児虐待と勘違いするくらいだから、酒に酔いやすいのが遺伝だと説明しても無駄なことは、湯川にもわかっていた。案の定、二人の刑事は、湯川の話を聞いて大声で笑い出した。 「酒を分解することができない特異体質なんて聞いたことがない」  とんがり鼻が顔をくしゃくしゃにしながら言った。  湯川は、なんとも返事のしようがなかった。 「まあ、酒の話はいいとして、合い鍵について訊きたい。三枝裕子と立原まゆみは、合い鍵を交換するほどの親友だったのかな」  再び初老のテリー刑事が質問した。 「さあ。副専攻が同じ音楽だったし、仲は良かったようですが‥‥‥」  心なしか湯川の表情が曇った。 「というと、留学生仲間でも相性が悪くて憎み合っていた連中もいたわけだ」  すかさず、若い方が割り込んだ。 「いや、個人的な諍いがあったかどうか、僕にはわかりません。でも、あんな殺し方をするほど憎んでいた奴がいたとは思えません」  湯川が反論した。 「誰も殺人だなんていってやしないよ」  若い刑事は、相手を挑発するようなしゃべり方をする。湯川は神経を逆撫でされてむっとした。 「あのね、物理学の初等計算ですよ。まゆみが自分のアパートのベランダから飛び降りて自殺したのであれば、ニュートンの法則にしたがって、放物線を描いて落下するはずです。速度の二乗に比例する空気抵抗を加味してね。あの教会の尖塔までは、水平距離が二十メートル以上あって、落下距離は数メートルに過ぎません。カール・ルイスが猛烈にダッシュしてジャンプしたって、届きっこありませんよ」  湯川は、一気にまくしたてた。 「なるほど。だてに優等生クラスなわけじゃない」 テリー似の老刑事が笑みを浮かべて相づちをうった。 「じゃあ、お得意の物理学の計算とやらで、どうやったら、ガイシャが教会のてっぺんの避雷針に突き刺さるのか、教えてもらいたいもんだ」  若い方が皮肉たっぷりに言った。 「さあ、それはあなたがたの仕事でしょう」  湯川は、そっぽを向いてしまった。 「まあまあ、そんなこと言わずに協力してください。あたしたちゃ、物理の計算なんてできないんだから。ビルの屋上から飛び降りたら、ああいう状態になるかな?」  テリー刑事が、湯川をなだめるように訊いた。 「物理学的には可能でしょうが、あのビルの屋上は地上百メートルはあります。衝撃が大きくて、遺体の損傷も激しくなるはずです」  湯川は、まゆみの死の光景を思い出して、身震いした。 「それにしても、なんで、あんなに目立つところに死体があったのに、君たちが発見するまで、誰ひとりとして気がつかなかったのかね?」  とんがり鼻の刑事は、本気で湯川と裕子を疑っているらしい。 「早朝だったからでしょう。犯罪心理学の授業で、殺人犯が現場に舞い戻るとか、まず遺体の第一発見者を疑え、とかいうのは教わりましたが、僕も裕子も、本当に関係ないんです」  湯川が答えた。 「君の専攻は物理学だろう、なぜ、犯罪心理学の授業なんかとったんだ」  犯罪心理学と聞いて、若い方が身を乗り出してきた。 「大学には主専攻と副専攻があるんです。僕は主専攻が物理学で、副専攻が犯罪学なんです。ほかにも、副専攻で文化人類学をとって、イヌイットの生活を体験したり、海洋生物学をとって、海に潜ってイルカと戯れている連中だっています。僕は、たまたま探偵小説が好きだから犯罪学をとったまでのことです」  湯川のうんざりした調子に、若い刑事の鼻がいっそう上を向いて、何か言おうとしたが、テリー刑事が手で制した。 「いや、わかったよ。落ち着きなさい。別に君だけを疑っているわけじゃない。関係者全員から事情を聴取させてもらっているだけだ。新聞やテレビで報道されている通り、ここんところ、似たような猟奇殺人が続いていてね。われわれも神経がピリピリしてるんだ」  感情を伴わない作り笑いをしたテリー刑事が湯川の目を凝視したまま言った。   ▼  二時間にもわたる事情聴取を終えて、疲れ切った湯川が、警察署の一階のロビーの玄関を出ようとすると、後ろから、テリー刑事が走ってきた。 「すまないが、通訳を頼まれてくれないか。被害者の親族が飛行機で着いたんだが、あいにく、ウチの署には日本語ができる者がいないんだ」  執拗な事情聴取には腹が立っていたが、まゆみの親族と言われて、湯川は、断ることができなかった。  テリー刑事のあとについて、くねくねと入り組んだ廊下を歩いて行くと、やがて、小さな応接室のようなところに入った。中には、六十歳くらいの背の低い痩せた男と十歳くらいの坊主頭の少年がソファーに座っていた。 「ムッシュ、タチハラ」  テリー刑事が声をかけると、男が立ち上がった。 「あの、湯川幸四郎と申します。このたびは、誠にご愁傷さまでございます。まゆみさんとは同級でした。本当に何と言っていいのか、言葉もありません」  湯川がお辞儀をすると、男は、深々と頭を下げた。 「立原弥一郎でございます。まゆみの叔父です。これが、まゆみの弟の馨でございます」  丸坊主のかわいらしい男の子が、ぺこんと挨拶をした。男の子は泣いているように見えたが、よく見ると、左目のすぐ下に黒子があるのだった。  二人とも、あまり、まゆみには似ていなかった。  男の子は、白いシャツに半ズボンをはいていたが、叔父の立原弥一郎は、今どき珍しく、羽織袴という古風な出で立ちだ。  湯川は、数年前、日本領事館の主催でカナダ人に日本の伝統を紹介するイベントで、まゆみが長刀の技を披露するのを見て驚いたことを思い出した。そのとき、まゆみは、自分の家が、岡山藩の剣術指南役だったから、幼い頃に叩き込まれたのだと教えてくれた。  だが、湯川は、この初老の立原弥一郎という男が、剣道界で「昭和の剣豪」の異名をとった人物であるとなど知る由もなかった。     六  立原まゆみの死は、その凄惨な光景ゆえ、しばらくの間、モントリオールのマスコミを賑わした。  司法解剖の結果、直接の死因は、腹部を貫通した傷による失血死ではなく、側頭部殴打による脳挫傷と判断された。  顔には殴られたような跡があり、後頭部にも内出血の跡が認められた。  また、首には、縄で絞められたような跡があり、両手首と両足首にも、縄できつく絞められたような跡が残っていた。  警察は、寝室の机の抽出しに入っていた日記を発見したが、そこにはダニエル、略してDという名前の恋人との交際が綴られ、日記の後半には、たびたび、   ダニエルの裏切者  という謎めいた言葉が書かれていた。  また、まゆみが殺された日、午後から大学の指導教官とオフィスで会いたい、という内容のファックスが教官のところに入っていたこともわかったが、用件については、わからずじまいだった。  カトリックの信者であったまゆみは、教会で世話になっていた神父にもファックスを送っていたが、この神父も、用件については思い当たる節がない、と証言した。  遺体の第一発見者となった湯川と裕子は、裕子が持っていた合い鍵のこともあって、警察に何度も事情聴取された。  財部と榎本と久美子の三人も警察に呼ばれたが、湯川と裕子が帰った後、泥酔状態のジャックをディオニシオス倶楽部に残したまま、二時間ほどまゆみのアパートで騒いだあと、後かたづけをしてから三人一緒に帰った、という証言は細部まで一致していた。  事件から一週間ほどたって、立原まゆみの叔父と弟は、まゆみの遺体とともに帰国した。    モントリオールは、先進諸国の大都市の中では、群を抜いて自殺率が高かったが、湯川の指摘を待つまでもなく、教会の尖塔の先に遺体を晒すことは、自殺にせよ他殺にせよ、不可能に思われ、警察は頭を抱えた。  まゆみは、意外と交際範囲も広く、日記に登場するダニエルという名の恋人が誰かはわからなかった。  立原家の帰国から一週間後、事態は急変した。  教会の尖塔に遺体を晒す手口で殺人を重ねてきた犯人が、警察との銃撃戦の末、死亡したのだ。  犯人の名前は、ダニエル・ビアンキ。米東部の名門校の大学院を出たエリート会計士だった。若い女性を誘拐しては、郊外の自宅の地下で拷問して殺害した後、人気のない教会の尖塔まで運んで、死体を晒していた。  警察は、テレビの公開捜査でプロファイリングの結果を詳細に発表した。   年齢、三十代から四十代   教育程度の高い弁護士や会計士などの専門職   地下室のある郊外の一軒家に住んでいる   配偶者などの共犯がいる可能性あり   幼少時のトラウマ経験  この条件が、あまりにも的確であったため、誘拐と死体遺棄の片棒を担がされていた妻のマリエッタが恐れをなし、警察に通報したのであった。  自宅にいるところを警察に急襲されたダニエルは、銃撃戦の末、死亡した。  犯人が、当日、どうやってまゆみのアパートに侵入したのかなど、いくつもの点が未解決ではあったが、ダニエルの名がまゆみの日記に頻繁に登場していたことが決め手となり、事実上、警察の捜査は打ち切られた。  残された五人の留学生仲間は、それぞれの胸にまゆみの死の疑惑をしまったまま、別々の人生を歩み始めた。  そして、十年の歳月が過ぎた‥‥‥ ディオニシオスの耳 湯川薫 (c)Kaoru Yukawa 1999 発行所 徳間書店