Making of the Terror at Terra


プロローグ


作家と読者の断絶って、かなり深刻な問題だと思う。

読者は、ある朝、新聞の広告を見て新刊が出たことを知る。あるいは、本屋の店頭に並んだ本を目撃する。最近では、湯川薫オフィシャルサイトのようなところで「予告」を目にして、事前に発売日がわかることもあるけど。(笑)

だが、いずれの場合でも、読者の目に触れるのは、商品としての本なのであり、その「製造工程」を目にする機会はほとんどない。

現代は、情報「反乱」の時代である。

それなのに、いっさいの工程が秘密裏におこなわれ、どうやって、最終的な小説ができあがるのか、その情報が開示されることはない。

同人誌などで活躍する人も多いし、俳句の雑誌やNHKの歌壇に登場する人も湯川サイトを訪れてくれる。

大学のミステリ研に所属する人も、読書だけでなく、創作の場面に興味があるのではなかろうか。

てなわけで、(とりあえず)プロの作家として(かすかすながら?)食っている湯川薫の創作現場と舞台裏を情報開示してしまおうという所存。

面白い人には面白いけど、興味のない人にはどうでもいい話です。
遊び半分でおつきあいくだされ。




1 作戦会議


2000年、ミレニアムの秋。
ところは都内某所。
むかうは某高級レストラン。

プログラマーやってたときもそうだったが、仕事関係で食事をするときは、たいてい、おごってもらえる。これは、「つくる」側の役得だといえよう。

僕の最初の著作は1989年に出た「パソコンによる広告管理」(日経広告研究所)という、広告代理店向けのプログラミングの本。今から考えると、冷や汗が出るような内容だが、当時は、みんな、こんなもんだった。古きよき時代、情報が反乱を起こす前の「のどかな牧歌的風景」といったところか。
 
しょっぱなから脱線しておるが、竹内薫と比べて、湯川薫は元気がない。
部数的には、三倍くらいしかちがわないのだが、この三倍が大きい。

竹内薫のほうは次々と執筆依頼がくるのに対して、湯川薫のほうは、各社とも様子見を決め込んでいる。三倍という部数の差が、いってみれば、予選通過ラインを挟んでいるわけで、なかなか厳しいところではある。

それで、今日は、竹内薫訳「科学の終焉」が五万部売れたことによる慰労会なのだが、同時に、湯川薫てこ入れの作戦会議の席でもある。

遅れてレストランに到着すると、すでにT書店のH氏、I氏、HG氏が席で待っていた。
「あ、いらっしゃい、お先に食前酒を飲んでまーす」
すでに顔の赤いI氏が快く僕を迎えてくれる。
「それじゃ、ワインに移りますか?」
編集者は、古参になるにしたがって、酒豪が増えてくる。若くなるにしたがって、下戸が多くなる。
「ガヴィデガヴィは、羽仁進のお気に入りで、フルーティで美味い」
H氏とI氏は、ともに文芸の編集をやっていたので、むかし、羽仁進さんのワインの本をつくったことがあって、ワインにはちょっとうるさい。(ワインの名前、まちがってるかも・・・僕は無知なので)

食事の記憶がないのに、ワインのことばかり覚えているのは、やはり、そういう話題が多かったからだろう。
 
「『イフからの手紙』は、いきなり異界に入り込んだから、うまく書けてると思うけど、売れなかったね」
「ヘェ」
「ま、気を落とさずに・・・あの田中芳樹さんだって、李さんのときはまったく売れなかったし、新宿鮫だって、六本木のときはまったく売れなかったし、沢木耕太郎なんか、あまりにも売れなかった時代の思い出が苦々しかったせいか、ウチじゃあ、書いてくれないもんな」
「李さんって誰です?」
「あ、知らない?」
「知りません」
「前のペンネーム」
「へぇ、大ベストセラー作家の田中さんも売れない時代があったんですか」
「編集者が見ていい作品でも、売れるようになるまでには時間がかかることもあるわけだな」
「六本木鮫っていうのは?」
「いやいや、六本木鮫じゃないけど、探偵の住んでいる場所が六本木とか青山のときは、売れなかったんよ」
「新宿にしたら売れたんですか?」
「うん」
「どうしてです?」
「それは、誰にもわからない」
「沢木さんは、どうして、書いてくれないんですか?」
「だって、売れないころ、オレたちの先輩編集者どもが酒に酔って呼び出して、からかってたからな。さぞかし、頭にきてたんだろう」
「ほぉ」
 
古参の編集者の人と食事にいくと、さまざまな作家の売れなかった時代の話がたくさん聞かれる。

みんな、苦労してるんだよな。
 
だが、設定を新宿にすれば売れるというのも解(げ)せない。それとも、東京生まれの僕にはわからないが、何か全国的に新宿が売れる理由でもあるのか。

ペンネームを変えたら売れた、という話は、これまでに何度も聞いていた。読者の側の先入観を払拭するために必要なこともあるし、書く側の意識改革につながることもあるのだろう。

だが、本当のところは、誰にもわからない。

売ろうという欲があると売れなかったりする。
「お客さんに売ろうと欲を出したら見透かされる。そうじゃなくて、いいものを虚心坦懐に提供する謙虚な心が必要だ。自分のことは忘れて、お客さんのことだけ考えろ。だが、自分のこだわりは捨てるな」

ふーむ、なるほど。
飲食店の心得をテレビでやっていた。

そういわれてみると、科学書の場合、少なくとも、売ろうという意識はないな。

ちょうど、結婚相手を探してギラギラしていると、みんなが逃げてしまうようなものか。

「屋久島で行きましょう。こうなったら、世界遺産にすがるしかない」

いきなり、話が飛ぶが、結論としては、

●難解だという先入観をもたれている
●思い切って場面設定を変えてみる
●もともと(竹内薫は)ユーモアが評価されているのに幸四郎シリーズは暗すぎる

それで、フィクションとノンフィクションが混ざることや、リアルとバーチャルな世界の境目の消失などといった湯川薫の「思想」的な側面は、とりあえずおいておいて、「難解」というイメージを払拭する必要がある、ということになった。

身近な世界遺産というのは、安易な気もするが、とにかく、なにか工夫しないと事態は打開できない。やはり、エンタテイメントには、楽しさが必要だ。(当たり前ですけど。)



2 シノプシス


編集者がいいと言っても、すぐに本を書き始められるわけではない。

各書店には、企画会議なるものがある。編集者と編集長の合議制による会議だ。実際、企画会議でボツになることは多い。売れっ子のベストセラー作家ならいざ知らず、そうでない作家は、みんな、この企画会議が第一ハードルになるわけ。

それで、企画会議を無事に通る大前提が「シノプシス」だ。

これは、作品のあらすじを書いたもので、特に決まった書式があるわけではないが、だいたい、

●仮題
●狙い
●あらすじ

というようなものを原稿用紙二枚から五枚くらいにまとめる。

この時点で、まだ、キャラクターは主人公の周辺しか決まっていない。もちろん、あらすじには、新しい登場人物が出てくるわけだから、おぼろげながら、キャラクター設定も考えてはいるのだが、固まってはいない。

「漂流密室」の場合、仮題は、

●「うるましまの密室は漂流する」

という、読み返してみると笑ってしまうものだった。狙いは、

●場面に親しみをもってもらうため、「世界遺産」の旅にする。科学捜査班の捜査で日本各地に飛ぶ、という設定が自然かもしれない。
●難解なイメージを払拭するために、思い切ってジュヴナイル小説風にして「子供の科学」あるいは「科学と学習」に出てくるような、驚きはあるけれどもわかりやすい科学トリックを使う。
●メガフロートは、以前、PR誌の取材で記事を書いたことがあるから思いついただけなので、密室はバイオスフィアのような設定も可。その場合は、世界遺産と連動して変更。

という感じ。まあ、これは、書いているうちにズレてくる。

メガフロートを舞台にするというのは、たまたま、新日鐵の海外向けPR誌の仕事でマリンフロート推進機構の取材にいったことがあるから。こういうのは、下積み時代(?)の貯金が物を言う。そういう意味では、ニューヨークやモントリオールの話も、ほとんど使っていないので、材料には事欠かない。

メガフロートの記事、たしかに僕が書いたのだと思うが、今になって見返してみると、なぜか、自分で書いた気がしない。名前を出さずに書いたものって、そういうところがある。最近、英文で記事を書く仕事から遠ざかっているせいかもしれない。

こんな記事。

The Mega-Float: Promise of New Land on the Sea

...In this article, we focus on the research and development of a promising altnernative: the Mega-Float. This ultra-large steel floating structure is expected to play a major role for use as airports, seaports, general waste treatment and other facilities in the coming century...To ensure 100-year durability,splash-zones are protected by titanium-clad steel...

ちなみに、この文章は、日本語を訳したものではない。英語で書くときは、英語で考える。それが鉄則。

別に自慢するわけじゃないが、英文で記事を書く仕事は、結構、大変だ。英作文の延長くらいに考えている人が多いが、だいぶ、ちがう。

「生の感覚」がないと書けないのである。

僕は、幼少時に英語の世界に放り込まれたし、大学を出てからも7年、英語圏とフランス語圏で生活していた。それでも、せいぜい、日本の企業の海外向け英文PR誌の記事を書くのが精一杯だ。言語のレベルというのは、そういう厳しいものだ。
「日本人のくせに英語がうまいね」
といわれることと、それで仕事をすることとは、次元がちがう。

ただし、英語を日本語に翻訳する仕事は、誰でも努力次第でできるようになる。つまり、英日の翻訳の場合、英語力もさることながら、日本語力の比重が高いということだ。そして、この日本語力が、意外とくせ者だったりする。

そのうち、「翻訳苦労話」でも連載しますか。誰も興味ないか。

大幅に脱線したが、僕の作品は、すべて、こういう下積み時代の貯金から生まれている。逆にいうと、さまざまな人生経験を経てこないと、なかなか、小説というものは書けないのだと思う。二十代に華々しくデヴューして、三十代には書くものがなくなる人がいるが、悲劇だと思う。

僕の場合、四十近くまで、プログラムを営業して廻っていたり、名前の出ない記事を淡々と書いていたから、死ぬまで、書くものには困らないだろう。(下積みが長すぎた気もするなぁ。)

さて、肝心のあらすじ部分であるが、まだ、本が出ていないので、さすがに開示できない。編集の本間さんに怒られない程度に、ちょっとだけ、ご覧にいれましょう。


世界遺産××のそばでは、メガフロート実験がおこなわれている。環境を破壊しないコンセプトで海に「鉄板」を浮かべて飛行場として利用する計画からはじまって、人工島における生態系の研究がおこなわれている。

ガイア仮説とのからみ。

一行は、科学教室の見学の一環として、メガフロートにも立ち寄ることに。研究員の大谷正男が親切に一行を案内してくれる。

メガフロートは、単なる鉄板ではなく、かなりの厚さの空洞があり、そこに係員用の住居設備もととのっている。

メガフロートの見学を終えて「地上」に出てきた一行は、渡ってきた桟橋がないことに気づいて大騒ぎになる。

なんと、メガフロートは岸から離れて、沖合を漂流しているのであった。


本が出たら、シノプシスそのものを見たい方は、メールでご連絡ください。お送りいたします。



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