サイエンスライターの憂鬱(現代物理学事始め)

 科哲を卒業して二十年以上の月日がたったが、いつのまにやらサイエンスライター稼業に落ち着いている。たまに小説も書いたりするので湯川薫というペンネームもあるのだが、ここのところ、本名の竹内薫の仕事のほうが圧倒的に多い。
 サイエンスライターの日常生活は、執筆と講演、あとは家事と洗濯といったところだろうか。最近は、髭ぼうぼうで寝てばかりいるので、妻に叱られたりしている。
 さて、このエッセイでは、最近、私の頭を悩ませている「現代物理学」について書いてみたい。真面目な話もあれば、軽い話題も飛び出すと思うので、あらかじめお断りしておく。もっと真面目なものを書こうかと思ったのだが、わざとらしくなったので、方針を切り替えて「物理エッセイ」にしてみました。あしからず。

 現代物理学の線引きをどうするかは意外と難しい。
 杓子定規に量子力学以後を「現代」と位置づけるとアインシュタインの特殊相対性理論が古典物理学に分類されてしまうからだ。
 私は何か新たな提案をするつもりはないし、すでに科学史の場でも論じられていることだが、サイエンスライターとしての「実感」を述べさせてもらうのであれば、物理学における「現代」と「古典」の境界は、次のようになるだろう。

古典物理学=ニュートン力学、マクスウェルの電磁気学など

移行期=アインシュタインの特殊相対論、量子論

現代物理学=アインシュタインの一般相対論、量子力学

 つまり、1900年のプランクによる「量子論」の発見、1905年のアインシュタインによる「特殊相対論」および「光量子仮説」、さらにはボーアのいわゆる前期量子論あたりが「グレーゾーン」になっていて、いうなれば「革命進行期」なのである。
「科哲」の読者には、まさに釈迦に説法であったかもしれない。

 いずれにせよ、現代物理学の二大革命(相対論と量子論)は、1900年頃からゆっくりと動き始めて、1915年から1927年あたりで一応の完結をみた、といえるであろう。
 それは哲学・思想の観点からは、自己完結した「物体」という概念がなりたたなくなり、物体間の関係性、さらには観測者と観測対象のつながりの重要性が認識され、人類の世界のとらえかたが劇的な飛躍をとげた時だといえる。
 たとえば、相対性理論においては、観測者によって時間の流れも空間の拡がりも変わってくる。
 ブラックホールに自由落下しつつある宇宙船の例を考えてみよう。
 観測者1が宇宙船の乗組員で、観測者2がブラックホールから遠く離れた宇宙ステーションの駐在員だとする。観測者1の視点では、自分の周囲は、ほぼ平らなミンコフスキー時空になっていて、あまり重力の影響はみられない。(ブラックホールの周囲には、それでも、自由落下では消せない「残留」重力が存在する。それが「曲率」である。)観測者1は、だから、ふだんと同じような生活を送りながらブラックホールに落ちてゆく。だが、遠く離れた観測者2の視点では、宇宙船は、ブラックホールの境界線付近で薄くなって静止したように見える。ブラックホールが「凍りついた星」と呼ばれるゆえんだ。
 これは、どんなポピュラーサイエンスの本にも書いてあることだが、哲学・思想と無縁な読者の多くは、このような事例に接すると、頻繁に「どちらが本当なのか」という問いを発する。そして、「落ちている当人の観測が本当で、遠くにいる駐在員の観測は錯覚なのだ」というような勝手な解釈に落ち着くことが多い。
 もちろん、それでは「相対性理論」にならないのであって、私もサイエンスライターの立場から口を酸っぱくして「どちらの観測も同等に本当であり、どちらか一方の観測が正しいとはいえません。それが相対性の意味なのです!」と説得を試みるのだが、いまだに「私は相対性理論が完全にまちがっていることを発見した。論文を書いたので読め」というようなとんでもないお手紙を多数頂戴する。かなり憂鬱な毎日である。
 もっとも、GPS携帯の普及とともに、こういった読者や会場の聴衆からの「反論」を封じることができて、このところ私は幸せの一時を過ごしている。GPS衛星は地上2万キロの軌道にあって、われわれを遊園地に導いてくれたり、軍隊のピンポイント爆撃を誘導したり、現代人の生活に深くかかわっている。
 地上からみると、GPS衛星は重力の弱い場所で地面に対して動いている。アインシュタインの相対性理論では、「相手の時計は遅れる」から、GPS衛星の時計は一日に約7マイクロ秒だけ遅れる。だが、同じ相対性理論によれば、「重力が強いと時計は遅れる」ので、地球の時計のほうがGPSの時計と比べて一日に約45マイクロ秒だけ遅れる。つまり、相対性理論の効果により、GPS衛星の時計は、(7−45=−38)マイクロ秒だけ遅れる。
 いいかえると、地上の時計と比べてGPSの時計は毎日約10万分の4秒程度「進む」のである。
 私の妻は朝寝坊をして会社に遅れないように、いつも時計を進めているが、どうやらGPS衛星も忙しい毎日を送っているようである。
 とにかく、「仮にあなたのいうように相対論がまちがっているのであれば、GPSシステムは狂ってしまいますから、道案内でこの会場まで来ることもできなくなりますねぇ」と嫌みたっぷりに再反論して、私は一人悦に入っているわけなのだ。私の憂鬱を吹っ飛ばしてくれて、どうもありがとう、GPS!
 
 現代物理学のもうひとつの雄、量子力学も、「観測者と観測対象」をペアで考えないといけない理論構造になっている。そして、観測するまでは、観測対象の「状態」が決まっていない、というのは、これまた読者や聴衆を説得するのに苦労する概念になっている。
「でも、それは人間が知らなかったり、観測装置に記録されていないだけで、本当は観測前に状態は決まっているんでしょ」
「ちがいます」
「そんなの変だわ」
「変です」
 そう、相対論と量子論が提示する世界観は、一般常識とは相いれない、という意味で「変」なのだ。
 最近、私は、いくら教えてもわかってくれない読者と聴衆には「ファインマン物理学の該当箇所を読んでみてください」とアドバイスしてお引き取り願うことにしている。こういうときには、最終的には「その道の権威」に頼るのがいちばんなのだ。狐はすべからく虎の威を借るに限る。

 さて、ここのところ、私の気分を憂鬱にしっぱなしなのがホーキングの宇宙論だ。スティーヴン・ホーキングは、「車イスのニュートン」の異名をとる天才物理学者だが、彼の哲学・思想的な立場は「実証論」であり、これまた、素朴な「実在論」の世界に生きている読者や聴衆には理解しにくい代物だからだ。
 ホーキングは、宇宙の始まりの「特異点」を理論から消去しようとして、「無境界仮説」なるものを提案した。特異点とは、アインシュタインの一般相対性理論に必然的に登場するもので、温度もエネルギー密度も無限大の地獄のような点のことだ。宇宙が特異点から始まるとすると、物理学は破綻する。なぜならば、微分方程式に無限大を入れると計算不能になるから。
 特異点をなくす過程でホーキングは「虚時間」なる概念を使った。今現在、われわれが時計で計っている時間は「実時間」だ。それに虚数をかけると虚時間になる。ホーキングは、「宇宙が始まったころを虚時間で分析する」のである。そして、「虚時間では特異点は消える」と主張したのだった。
 いいことずくめのようだが、ホーキングは、続けて、「それでも実時間では特異点は消えない」とのたまう。
 ホーキングの一般向けの本を読んでいて、この部分で混乱しない読者は、おそらく量子宇宙論の専門家と科学哲学者だけであろう。
 ホーキングは、「実時間と虚時間のどちらかが正しいということはない。どちらで宇宙を論じてもかまわない。単なる視点の差にすぎない」と言っているのだ。たしかに、「明白に実証できるデータと理論だけ」が重要であり、時間の「実在性」になど興味がないのであるから、ホーキングの実証論的な立場は一貫している。
 でも、実時間では、温度もエネルギー密度も無限大の「ビッグバンの特異点」があるのに、虚時間では、それがなくなって、おまけに(無境界だから)宇宙の始まりも消えてしまう。私の講演の聴衆でなくとも「でも、どっちの宇宙が本当なの?」という疑問を抱くほうが自然だろう。

 もちろん、ホーキングで驚いていてはいけない。相対論も量子論も科学革命であることはまちがいないが、今度は、この二つを一緒にしたらどうなるかを人類は真剣に考え始めているからだ。
 革命と革命が一緒になると、それは「究極理論」と呼ばれるのだが、そうなると、さらに世の中は混迷の度を深め、「わからない」コールの前に、私の憂鬱も酷くなる。
 最近、脚光を浴びている「ループ量子重力理論」では、とうとう時空そのものが消えてしまった。宇宙に存在するのは「スピン・ネットワーク」と呼ばれる数学的な「前提条件」にすぎず、そこから「時空」概念が二次的に派生するのだ。
 物理学は、単独で存在する「モノ」を次々と葬り去り、関係性のネットワーク、いいかえると「コト」のほうが重要になってきた。そして、今や、モノの
「容れ物」であった「時空」さえもが主役の座から引きずり下ろされ、物理学の究極理論からは、「モノ」の痕跡が完全に消去された感がある。
 むかし、大森荘蔵先生や廣松渉先生の「モノ=コト論」を読んだり聞いたりしていて、誰かが「完全にモノが消えてコトだけになることなど可能なのか」というコメントを発したのを憶えている。
 どうやら、現代物理学の世界は、いやおうなしにコト化への道を突き進んでおり、私が見るかぎり、全てはコトとなり、そこから何段階もの数式や思考のステップを経て、ようやくモノが派生してくる、というのが実情のようだ。
 哲学における「コト的世界観」が、「物」理学において、もっとも先鋭な形であらわれているのも皮肉だが、それは、物体と宇宙の性質を突き詰めていった先に待ち受けていた。
 
 最近、私のもとには、東洋思想や宗教思想との関係をしゃべってほしい、という講演依頼が舞い込んでくることが増えてきた。いっそのこと「コト教」という宗教でも始めようかと考えている。(ウソです。)
 それでも、世界からモノが消えるということ自体、かなり憂鬱なものだ。それは現実感覚の喪失につながる。コンビニに買い物に行って、レジで千円札を渡しながら、「この金もコトだよなぁ。ホントは単なるインクのしみにすぎないのに」などと考え始めたら、要注意。
 そろそろ、お後がよろしいようで---。

東京大学「科哲の会」会誌第7号(2005年)掲載