ホーキングってホントに難しいんですか?

 去年の夏、ホーキングについて書き始めてから、私の悪戦苦闘は始まった。当初、私には、ホーキングの「考えていること」が難解きわまりないものに感ぜられた。
 たとえばホーキングは、ここ20年ほどの間、「いったんブラックホールに落ちた情報(=物質などが持っている物理的な属性など)は二度と外には出てこない」という立場をつらぬいていたはずなのに、去年の7月になって突然、「やはり、気が変わった。ちゃんと計算してみたら、ブラックホールの情報は外に出てくることがわかった」と物理学会の席上で発表した。それも学会の直前になってアイディアが閃いたらしく、無理に特別講演の枠をとってもらったため、あっという間に噂が拡がって、世界中のマスコミの注目の的になってしまった。
 主催者側は、なぜホーキングを特別扱いしたのかとマスコミに突っ込まれて、
「正直に言うと、ホーキングの名声につられてしまいました」
 と告白する始末。
 私は、一連のマスコミのフィーバーぶりを眺めながら、内心、「みんな、してやられたな」と思った。実は、ホーキングは、ブラックホールに落ちた情報が消滅するのか復元できるのか、プレスキルという学者と賭けをしていたのだ。マスコミの注視する中、ホーキングは高らかに「敗北宣言」をしてみせた。そして、(情報を洒落にして)プレスキルに賭けの代償として百科事典を贈ったのである。
 まさにロックスター顔負けの舞台パフォーマンスではないか。日本のタレント学者なんぞ足下にも及ばない。凄いぞ、ホーキング。
 賭けに勝った(はず)の当人のプレスキルは、記者団に囲まれて、
「ホーキングの講演はあまり理解できなかった」
 と当惑げに語った。
 実際、サイエンス誌のような権威ある科学雑誌の記事を読んでみても、肝心要(かなめ)のホーキングの講演の内容については、ほとんど誰にもわからなかった、と書いてある。
 そんな馬鹿な、と思って、学会直後にネットに流出したホーキングの講演録を自分で読んでみたが、なるほど、天才の閃きで結論まで超特急でもっていかれたような感じで、チンプンカンプンであった。
 彼は、出席者のほとんどが理解できない講演をおこなって、世界には「ホーキング、賭けに負ける」というニュースが駆け巡ったのだ。
 しかし、あの天才が自信たっぷりに結論づけたのだから、おそらく、彼がしゃべったことも正しいにちがいない……。周囲にそう思わせてしまうところが天才の天才たるゆえんなのだろう。
 ホーキングは、本当に謎を解明したのだろうか。それともマスコミの前で賭けに負けてみせて、派手なパフォーマンスがしたかっただけなのだろうか。
 ホーキングが本当は何を考えて、このような行動をとったのか、実に難しいのである。

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 ここ数年、マスコミを賑わしているのはホーキングの暴行疑惑だ。
 もちろん、車イスから動くことのできないホーキングが誰かを暴行したのではなく、再婚した妻がホーキングを暴行している、という根強い噂のことである。
 噂といってもネット上を駆け巡っているだけではなく、イギリスの大衆紙やAP通信なども報じていて、実際に警察も捜査をしているのだから、単なる噂として片づけるわけにもいかない。
 事の発端は、ホーキングが長年連れ添った妻と離婚して、看護士のひとりと再婚したことだ。
 ホーキングは、ベストセラーによって巨万の富を蓄えたので、当然のことながら、ホーキングが死んだら遺産の分配が問題となる。最初の妻との間にもうけた娘は、すでに成人しているが、愛する父を奪った看護士に対する憎しみもあったのだろう。娘本人が警察に駆け込んで「このままでは父は殺される」と言って捜査の開始を要求したのである。
 さまざまな情報をつきあわせてみると、再婚後、ホーキングが不可解な怪我を多くするようになったことは事実らしい。だが、警察の事情聴取に応じたホーキングは、新しい妻の身の潔白を主張し、どこにも事件性などない、と言い切ったため、警察もそれ以上手が出せない情況が続いている。
 実にミステリアスである。
 看護士から妻になった女性は、本当に身動きのできないホーキングをいたぶったのか、それともすべては娘の妄想なのか。真相は闇に包まれたまま。
 うーん、警察も肉親もホーキングが何を考えているのか、わからない。実に難しいのである。
 
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 最後にホーキングの理論の背後に潜む「思想」の問題がある。
 ホーキングの科学思想は「実証主義」と呼ばれる。ナニ、科学というものは、そもそも実証しなくては意味がないのだから、多いにケッコウ……などと安穏に構えてなどいられない。実証主義というのは、実に恐るべき哲学的な立場なのだ。
 たとえば、われわれは目の前の物質世界が「リアル」だと感じている。また、われわれが存在して生きている理由があると考えている。それが普通だ。そういった「物質の背後に存在理由を求める」態度のことを「実在主義」と呼ぶ。
 実証主義は実在主義の反対語だ。
 実証主義は、「実証できることがら」だけが重要だと主張する。だから、目の前の物質や空間が実在するかどうかなんて関係ない。何かが実在するかどうかではなく、実験して理論と数値が合うかどうかだけが問題なのだ。
 ホーキングの主張で世界の大多数の人々が「わからない」と声高に叫ぶ概念が「虚時間」というものだ。これは、大昔、まだ宇宙が若かったころ、時間が実数ではなく虚数だった、という主張だ。
 まあ、理論物理学は数学に近いのだから、もしかしたら、そのようなことだってあるかもしれない。時間が虚数であることは可能性としては理解できる。
 だが、ホーキングの「虚時間」の難解さは、そんな数学的な定義にあるのではない。そうではなくて、ここには根本的な思想的な難しさが潜んでいる。
 ホーキングは、
「虚時間の宇宙にはビッグバンは存在しないから計算することができる。でも、やりたければ、あなたは実時間でビッグバンを見てもいいんだよ。宇宙の時間が虚数か実数かなんてどっちでもいいんだから」
 と、のたもうのである。
 え? 普通の宇宙論とちがって、宇宙が若かったころは時間が虚数だ、という主張に驚いて勉強を始めたのに、どっちでもいいって一体どういうことですかぁ? 思わず目が点になる。
 どうやら、価値の相対化のようなことがホーキングの頭の中では起きているらしい。そもそも、何が本当か、何が実在するのか、という問いは(ホーキングにとっては)意味をなさない。実験と理論値を比べる際には、時間が虚数であろうと実数であろうと関係がない。つまるところ、時間など、リアルな存在ではないのだから。
 うーむ、こうやって考えてみると、ホーキングの難解さは、彼の数学技巧にあるのではなく、むしろ、彼の根本的な人生観にあるのではないか、と思えてくる。
 で、結局、ホーキングって、本当に難しいんですか? 
 うーむ、やはり、よくわからん……。

(講談社「本」2005年8月号掲載)