実験


1

 最近の若者は電車の中で平気で化粧をする。
テレビを見ていたら、北拓大学の澤尻教授が興味深い仮説を述べていた。
「若者が恥の概念をなくしたのは前頭葉が未発達だからです」
ナルホド。
若者の化粧は前頭葉の未発達と関係しているのか。
ようするに躾(しつけ)ができていないのだな。

テレビの画面が正午のHHKニュースに切り替わった。
「あ、それ見てたのに」
俺が抗議すると、妻の洋子は、
「近頃の若いもんは、なんて言い始めたら歳の証拠よ」
と、にべもない。
「そうかなぁ」
「そうに決まっているわ。私たちの若い頃だって、タケノコ族とか学生闘争とか、いろいろあったじゃない」
「学生闘争なんてあったかなぁ」
帰国子女の洋子は、ときどき、おかしなことをいう。なんだか世代がずれているようなのだ。
「あなた、最近、ボケはじめてるんじゃない? 病院いって診てもらったほうがいいわよ」
「馬鹿いえ、まだ、老人性痴呆症には早すぎる」
「そんなことないわよ。お隣のご主人だって、まだ、四十五だというのに、薬をもらっているそうよ」
「四十五?」
「そうなのよ。毎日まいにち、奥さんの愚痴を聞かされて、たまったもんじゃないわ」
「そうか」
「もう、ご飯は下げていいのね?」
「あ、ああ、ごちそうさま」
「あら? 何か臭わない?」
食卓を片づけはじめた洋子が、鼻をくんくんさせる仕草をした。
「臭い? いや、何も臭わんぞ」
洋子は、猫のように鼻をくんくんさせながら、台所に入っていった。
俺は、ふたたびテレビを澤尻教授の番組に替えた。
しばらくして、台所から、
「やだ、納豆が出しっぱなしじゃない」
という洋子の声が聞こえてきた。
俺が食堂の椅子から立ち上がって台所に入ってみると、流しの横で洋子が納豆をゆび指している。
「俺は知らんぞ」
「何いってるのよ。ウチで納豆食べるのは、アナタだけでしょう。アタシが納豆嫌いなこと知ってるでしょう?」
「変だな。納豆を混ぜて、そのままにするなんて・・・」
「納豆を混ぜていて、ほかのことを思いついて、忘れちゃったんじゃないの?」
「そうかな・・・テレビが気になったからかな」
「だいたい、臭いもしないなんて、変よ。ボケはじめると、臭いがしなくなるそうよ」
洋子は、そういうと、腰に手を当てて、俺の顔をしげしげと見つめた。




ばつが悪くなった俺は、そそくさと自分の書斎に閉じこもった。

そして、またぞろ、例の仮説に思いを巡らせはじめた。

例の仮説とはなんのことか?

実は、俺は、最近、怖ろしい仮説を思いついてしまったのだ。
それは、最近の若者が、全般的に学力不足とか前頭葉が未発達といわれる反面、一部は、かえって「超人化」しているのではないか、という仮説だ。

半年ほど前、「続科学の終焉」という、フロイトやIQテストやショック療法などをあつかった本を読んでいて、オタゴ大学のフリンという学者の発見に目が止まった。
フリンは、軍隊のIQテストにかかわっていた経験があり、そこで、奇妙な「操作」に遭遇したというのだ。
軍隊では毎年IQテストが実施されるが、その平均点が、年々、上昇するのだという。
困り果てた軍の当局者たちは、きわめて実践的な解決法を思いついた。

解決法 前年のIQテストの平均点を上回らないように点数を調整する

つまり、毎年、作為的にIQテストの結果を引き下げるのである。
よく、赤点の試験に下駄を履かせることがあるが、その逆をやるわけだ。

「フリン効果」のふつうの解釈は、

1 年々IQテストの成績が上昇する
2 人類の知能は世代によらず一定だ
3 だからIQテストは信頼がおけぬ

という明快な三段論法になっている。
だが、俺は、最近、もっと単刀直入な解釈が存在するのではないかと真剣に考えはじめている。それは、

1 年々IQテストの成績が上昇する
2 現代の若者は超人化しているのだ

というものだ。

なぜ、このような仮説を思いついたのか?

それは、20世紀に入ってからの情報量の増大にともなって、その情報を処理できる人々と、情報の洪水に飲み込まれてしまう人々との格差が増大しつつある、という「事実」との関連だ。

「不読者」が国民の半数を超えた異常事態について一部の知識人が声明を発表するほどの大騒ぎになっている。
だが、「不読者」の増大は、情報過多の問題と切り離すことができない。
長引く不況や携帯・インターネット通信費やゲームだけでなく、年間6万部以上という膨大な出版点数にも原因があるのではないのか。
つまり、情報が増えすぎて、一部の人間の脳の情報処理能力をはるかに超えてしまったのではあるまいか。
彼らは、早すぎて多すぎる情報の流れについてゆくことができなくなって、自らの携帯電話の世界に閉じこもりっきりとなり、外部から流入する情報をシャットアウトしはじめたのだ。

それでは、このような膨大な情報の洪水の中にあって、いまだに「読者」であり続ける人々は、いったい、どうなっているのだ?

そう、もうおわかりのように、「読者」は情報淘汰に生き残ることができる選ばれた人類なのである。
環境の激変についてゆくことができずに滅びた種を数えはじめたら切りがない。
生物は、そのような危機に直面するたびに「進化」することによって生き残ってきた。
ネアンデルタール人は滅びたが、ホモサピエンスは生き残ったではないか。
きりんの首は伸びたが、首の伸びなかったきりんは絶滅したではないか。

ふわぁっはっはっは。

そうだ! われわれは、いま、まさに、人類の新たなる進化を目撃しているにちがいない!

これこそ、ニーチェや聖徳太子が熱望していた「超人」の誕生の瞬間なのではあるまいか?

俺は、いてもたってもいられずに、この仮説を検証するための実験をすることにした。
俺は、東京都科学振興委員会から給付された「丸釜遺跡における前方後円墳型の祭祀跡の年代調査」という名目の研究費を流用することにした。
だが、そうなると、遺跡の調査をする費用がなくなってしまう。
俺は、東京都科学振興委員会に提出すべき研究報告書に、
「前方後円墳型の祭壇とされているものは、大きさが、ほぼ、現代の和式トイレと同じであり、形も酷似している。また、水を流すように設計されている。筆者らは、綿密な現地調査の結果、当時の支配者階級が使用していた水洗トイレであるとの確証を得た」
と記すと、速達郵便で返送することにした。

ふん、あんなもん、誰が見ても一目瞭然じゃないか。祭祀につかっていただと? 嘘こけ。トイレだよ、トイレ。原人はいなかったが、トイレは存在した。それが厳然たる考古学的な事実だ。

さて、俺の目下の最重要研究課題は、「情報量の増大にともなう超人<ネオ・ホモ・サピエンス>の出現の可能性について」に変わった。

善は急げだ。
俺は、流用する百万円の研究費を鷲掴みにすると、人類学的なフィールドワークの現場へと赴くことにした。
「ちょっと出てくる」
居間に声をかけると、洋子が返事をする前に、俺は、街へと飛び出した。




原宿の竹下通り。

流れ来る若者の群を観察しながら、俺は、超人らしい顔つきをした人物を必死になって探しはじめた。
やがて、俺の目は、歳の頃、二十歳くらいのド派手な恰好の女に釘付けになった。
コンビニの入口付近に腰掛けて本を読んでいる。
原宿のコンビニの前で読書。ふつうではない。超人、ネオ・ホモ・サピエンスの可能性がある。

コンビニの周辺には、古ぼけたレインコート姿の中年男が立ったまま缶珈琲を飲んでいた。そのとなりには、全身、ベージュ色の洋服で統一した三十歳くらいの女性が立っている。中年男の連れらしい。会社の不倫関係か。
俺は、そういった超人の可能性のない連中には目もくれずに、若い女に近づいて声をかけた。
「ねぇ、きみ」
女は真っ黒な顔をしている。自らが超人であることをカモフラージュするための化粧かもしれない。本から視線をあげて、俺のことをジロリと睨んだが、そのまま、ふたたび読書をはじめた。もの凄い知識欲だ。やはり、ただものではない。
こちらの意図を悟られてはいかん。
まちがっても、<あなたは、もしかして、情報処理能力の傑出した、突然変異のネオ・ホモ・サピエンスですか?>などと訊ねてはいけない。
「あの、よかったら、アルバイトしない?」
「オッサンキモイヨ」
「???」
いったい何語なのだ?
少なくとも英語ではないしフランス語でもないしドイツ語でもないしラテン語でもないしギリシャ語でもないことだけは確かだ。語学堪能な俺がわからない言語を話す女。俺は自分の直観が正しいのだと感じた。
「私は科学者で、こういう者です」俺は東都大学文学部人類学教室助教授竹田克美と記された名刺を見せた。「怪しいものではありません。ちょっと研究に協力していただきたいのです。ちゃんと御礼も差し上げます。政府の調査なのです」
政府の調査というのは嘘だが、流用する研究費は東京都から出ているので、まんざら、嘘でもあるまい。
「いくら?」
「は? あ、ええと、いくらなら協力してくれますか?」
「十万円」
「では、御礼は十万円ということで」
「うそぉ」
「いえ、嘘ではありません」
「おっさん、ホントに金もってんの?」
俺は、コホンと咳払いをすると、懐から万札をとりだした。
「それでは、前金で五万円をお渡しします」
女は、黙って五万円を受け取ると、喜んで、もっていたバッグにしまいこんだ。
俺は、すかさず、質問を発した。
「突然ですが、林木首相について、どう思いますか?」
「ゴリラみたい」
俺は、この答えに狂喜乱舞した。
やはり、俺の勘は正しい。こともあろうに、日本国の首相のことをゴリラと言い切ってしまう、この女は・・・。ただものではない。
「ちょっとゲームセンターに行こうか?」
金を払ったために気が大きくなった俺は、丁寧語をやめて女を誘った。
「ええ? ゲーセン行ってどうすんの?」
「ちょっと確かめたいことがあってね、その後、近くのホテルででも・・・」
「ふーん、そーゆーこと。わかったわ」
そう。まずはゲームセンターで確認してから、雑音の入らないホテルの一室で筆記試験をやってもらえば、「若者の超人化」という俺の仮説が確認できるというわけだ。
われわれは、コンビニから歩いて数分のところにあるゲームセンターに入った。
平日の昼間とあって、さほど混雑してはいない。

ふふふ、情報処理能力を見るのに最適の検査器がここにはある。
瞬時にして情報を判断して素早く動かないと生き残ることができない検査機器――。

一見、タコス屋の看板かとみまがうほど派手なメキシカンハットにごまかされてはいけない。

俺は、インターネットで、このゲームの詳しい情報を集めて分析してきたのだ。
画面の真ん中から矢継ぎ早に出る青い玉の方向に向かって、正確無比なマスカラ・・・じゃない・・・マラカスのストロークが要求される。おまけに、新体操のような難易度の高いポーズまで決めないといけない。
青玉が一つのときは、両手のマラカスを重ねて振ると、「YEAH!」という声ではなく、「アミーゴ」という声になって、得点もアップするのだ。

「これ、やろう」
俺が懐から小銭を出しながら女をゲームに誘うと、
「おっさん、マジかよ」
という応えが返ってきた。まるで女性ではないかのような口調だ。やはり、素性を隠しているにちがいない。
ふふふ、だが、俺の目をごまかすことなどできやしない。
今にお前の正体を暴いてやるぞ。




十数分後、俺は、驚愕の表情で機械の前に立ち尽くしていた。

あれだけ事前に詳細な情報分析をしていたにもかかわらず、俺は、しょっぱなからDランクでゲームから排除されてしまった。
子供のころから秀才といわれ続け、運動神経も抜群で、杉並区立中学水泳大会で八位に入賞したこともあり、常に学年トップであり続け、東都大学の助教授にまで上り詰めた、IQ200にちょっと足りない、この俺が。

目の前の女は、軽快なリズムで踊り続け、マラカスを振り続けている。
驚くべき情報処理能力だ。
俺の額から大粒の汗が流れて落ちた。

やがて、女の動きが止まった。

   9987000点

「ちぇ・・・もう、手がだるいよぉ」
女が吐き捨てるように言った。
俺は、感涙にむせびそうになった。恐るべき情報処理能力だ。人間離れしている。
明らかに、ネオ・ホモ・サピエンスの出現だ!
俺の仮説は、半分、検証された。

ゲームセンターを出た俺は、女に最終テストをほどこす場所を探しはじめた。
一時間ほどの筆記試験をやらせてみれば、俺の仮説が科学的に検証されるのだ。
俺は、女の手を握って、引っ張るように歩きはじめた。
「やだぁ、痛いよぉ、ちょっとォ」
「うるさい、金は払っただろうが! おとなしくついてこい! ほれ、そのホテルに入るぞ」
俺は、最初に見つけたホテルに入ることにした。
「もぉ、帰りたいー」
「一時間ほどですむ。おわったら、あとの五万円も払ってやるから」
そう女を説得して、ホテルの受付で部屋代を払った瞬間。
「旦那さん・・・ちょっと失礼していいですか」
背後から声をかけられた。
ギョッとして振り向くと、そこには、さきほどのコンビニの前にいた中年男と連れの女が立っている。
「なんだ、なんだ、おまえたちは。この特定の部屋で不倫したいとでもいうのか? だめだ。俺が先約だ」
すると、俺の目の前に、黒い警察手帖が突き付けられた。
「警察です」
「お嬢ちゃん、こんな時間にどうしたの?」
補導係の女刑事が俺のネオ・ホモ・サピエンス女に尋問をはじめた。
「あーあ、だから、やだったんだ・・・ついてねぇなぁ・・・見りゃわかんだろ」
ネオ・ホモ・サピエンス女がぶっきらぼうに応えた。
「そう、このおじさんにホテルに誘われたのね?」
「そうだよ、十万円で」
女刑事の目つきが変わった。俺を見た。軽蔑と憎悪のまなざしである。ふたたびネオ・ホモ・サピエンス女に視線を戻した。
「あなた、何歳?」
「十三」
今度は、男の刑事が俺を見て微笑んだ。いつのまにか、獲物をいたぶるような邪悪な目になっている。
「旦那さん、いい年して、中学生をたぶらかすなんて・・・都の買春防止条例というのをご存じないですか? ちょっと署までご同行願います」
はめられた。
陰謀だ。
この女は、誰がどう見ても二十歳以下であるはずがない。十三歳であるはずがない。俺の目は節穴ではない。
だが、どうして、俺の実験計画が国家権力に洩れたのだ?
「ちがう! 濡れ衣だ! 十三歳だなんて知らなかったんだ!」
警察は、おそらく、上層部の指示により、俺の危険な仮説を闇に葬り去るべく、尾行していたにちがいない。
ネオ・ホモ・サピエンス女は、連行される途中、わけのわからない罵声を発しながら、俺の脚を思い切り蹴飛ばした。
向こうずねに激痛が走り、俺は、その場に倒れ込んだ。
騒ぎを聞きつけて、人が大勢あつまってきた。
ネオ・ホモ・サピエンス女は、すべてを俺の責任にして、自分は逃れることに決めたらしく、被害者である立場を切々と語ると、むせぶように泣き出した。
俺が立ち上がると、いつのまにか、周囲には厚い人垣ができている。
「買春だってよ」
「やだ、いい歳して」
「相手は中学生だってさ」
「こんな奴、死刑にしろ!」
「おい、警察、こんな極悪人に手錠をはめないのか!」
群衆のリンチを恐れたのか、刑事は、おもむろに手錠を取り出すと、大きな声で、
「この野郎、逮捕する!」
というなり、俺の両手に手錠をはめた。
群がる人々から拍手がわいた。

翌日の新聞には、俺の逮捕記事とともに、北拓大学の澤尻教授のコメントが載った。
「同じ学術研究に携わる者として恥ずかしい限りだ。責任ある社会的な地位にある人の破廉恥な行動が目につくが、まるで人類が退化しているかのように感じる。それにしても、公の研究費を流用までして・・・恥の概念がまるでない。この人は、前頭葉が未発達のまま社会に出てしまったのではあるまいか」




裁判は、厳かな雰囲気の中で、そのわりには事務的に淡々と進められていった。

だが、裁判の途中で、俺は、仏頂面をした裁判官も、狐のような顔をした検察官も、いや、それどころか、国選弁護人の禿げでデブの山本までが、みんな、グルになって俺を陥れようとしているのではないかと勘づいてしまった。
その証拠に、口角泡を飛ばして言い争いをしている狐と禿げにしても、それをタイミング良くたしなめる仏頂面にしても、どこか演技がかっていて、怪しいのだ。
俺は、裁判の経過をおとなしく見守っていたが、あるとき、致命的な過ちを犯してしまった。
「みんな、本当は、超人の出現のことを知っていて、俺の口を封じようという魂胆なのだな」
俺は、独り言のように、そう、つぶやいた。
なぜか、わからないが、俺は、この連中が「裁判ごっこ」をやっているのかどうか、確かめたくてしょうがなくなってしまったのだ。
法廷は、一瞬、シーンと静まり返った。
誰も、一言も発しない。
みんなの目が俺に集中した。

そして・・・。

俺は、裁判官と検察官と弁護士の山本が、互いに目配せをしたのを見逃さなかった。

その翌日から、裁判の方向が百八十度、逆転した。
これまでは、検察側も弁護側も裁判側も、俺を刑務所に送ることで一致していたようなのが、急転直下、まさに大政翼賛会ばりの満場一致で、俺に精神鑑定を受けさせたほうがいい、ということに決まったのだ。




「北拓大学の澤尻です」
夏目漱石と森鴎外を足して二で割ったような姿形の白衣姿の男が部屋に入ってきた。
「東都大学の武田です」
澤尻は、俺の言葉をきくなり、目を細めて、笑い出した。
「いやぁっはっは。これは・・・聞きしにまさる御仁だ。引っかけようと思っても駄目です。あなたの苗字は、武田ではなく、竹田でしょう。私を試しておられるのか」
そういって、俺の目の奥底をのぞき込むように顔だけ前にせりだしてきた。
「ふわぁっはっは。仰せのとおり、たしかに俺は竹田だ。だが、あなたは、ご自分の力を過信なさるあまり、致命的なミスを犯した。どういうことかわかりますか?」
俺の言葉を聞くなり、澤尻の顔がこわばり、目の周囲がピクピクと痙攣(けいれん)をはじめた。
「そういうことか」
「そういうことです」

しばしの沈黙。

俺と澤尻は、にらめっこをしたまま黙り込んだ。

三分ほどたって、ついに、困惑の表情で、澤尻が訊ねた。
「どういうことだ」
澤尻は、わかった振りをしていたが、実は、俺の言葉の意味が理解できなかったのだ。やれやれ。しかたないので、俺は、説明してやることにした。
「いいですか。武田と竹田では、発音になんら差がないのです。ところが、あなたは、俺が、わざと竹田ではなく、武田といったことに気がついた。つまり、あなたも常人とはちがった能力を持っていることがバレてしまったわけだ」
澤尻は、この指摘に、驚愕のあまり言葉も出ないようだった。
俺は、医者と患者という立場を逆転することに成功した。
「私が、あなたのいうところのネオ・ホモ・サピエンスだと?」
澤尻は、またしても墓穴を掘る恰好になった。
「俺は<超人>という言葉は遣ったかもしれないが、<ネオ・ホモ・サピエンス>などという言葉は、人前では遣っていないぞ」
澤尻の顔は、いつのまにか、恐怖の表情にかわっていた。
だが、それが、俺の推理力に対する恐れなのか、それとも、自分の正体がバレてしまい、誰かに処罰されるからなのか、それとも、単に、医者が患者に尋問されるというシチュエーションが耐えられないからなのか、理由はわからなかった。
澤尻は、難しい顔になって、しばらく考え込んでいたが、やがて、ボソっとつぶやくようにいった。
「しかたないですな。そこまで誇大妄想が酷いようでは、処置入院もやむをえまい」
俺の背筋を冷たいものが走った。
「なにをする気だ。まだ、俺は裁判中なのだぞ。お前の正体をマスコミにばらしてやるぞ。それでもいいのか」
澤尻は、電話の受話器をもちあげると、わざと俺に聞こえるように、
「看護人に拘束服をもってこさせてくれ。患者が暴れている」
といって、俺のほうを見て、蛇のような目つきになって、ニヤリと笑った。

だが、澤尻が受話器を置くか置かないかのうちに、俺は、澤尻の顎に強烈なアッパーカットを食らわしていた。
夏目漱石と森鴎外の悲鳴を足して二で割ったような悲鳴を澤尻はあげた。
俺は、そのまま、窓をつきやぶると、病院の中庭を走り抜けて、脱兎のごとく逃げはじめた。




俺は汗びっしょりになりながら、見知らぬ街の裏通りを歩いていた。
いったい、これからどうすればいいのだ。
唯一の身内である洋子に連絡をすべきだろうか。
洋子なら、何か、いい知恵が浮かぶかもしれない。
なにしろ、帰国子女なのだ。
おかしな言動もあるにはあるが、危機的状況には、とても強い女なのだ。
だが、俺は一文無しで携帯電話もない。
みんな、警察に取り上げられてしまったからだ。

「あら、警察に捕まったんじゃなかったの?」
驚いて顔をあげると、なんと、目の前に洋子が立っていた。
「お、おまえ・・・いったい、どうして・・・」
洋子は、これまで見たこともないような豹柄の挑発的なワンピースを着ている。
「デパートに買い物に行こうかと思って」
「おまえなぁ」
「それより、汗びしょじゃないの。どうするつもり?」
「さぁ、どうしよう」
俺は、いつものように、事態の収拾を洋子にまかせるような懇願の視線を送った。
「問題が起きると、いつもアタシが尻拭いさせられるのよねぇ」
そうなのだ、これまでも、何度か、洋子によって危機的情況を切り抜けてきた覚えがある。
ふだんは駄目だが、いざというときには、機転がきく女なのだ、洋子は。なにしろ、帰国子女なのだ。
「とりあえず、ホテルに潜伏しましょう。シャワーも浴びたいでしょ?」
俺は、洋子の指示にしたがうことにした。
「だが、フロントが通報しやしないか?」
俺の質問に、洋子は、
「大丈夫、まかせてちょうだい」
と胸を叩いた。

一時間後、俺と洋子は、さる大学が経営しているといわれているイタリア風の高級ホテルのスイートルームにいた。
洋子がチェックインを済ませてから、ホテルの駐車場に隠れていた俺を連れて、地下のエレベーターで部屋まであがったのだ。
久しぶりに緊張から解放されて、俺は、ゆったりと風呂に浸かっていた。

俺が浴室から出ると、用意のいいことに、洋子は、ルームサービスでカレーライスとサラダをとっておいてくれた。
俺は、空腹であったことに気づいて、むさぼるように食事をたいらげた。
洋子は、アイスピックで氷を割ると、ウィスキーのオンザロックをつくってくれた。
そのとき、俺は、洋子が豹柄のワンピースから、ネグリジェに着替えていることに気がついた。
腹が空きすぎていたせいか、食うのに忙しく、洋子のことなど念頭になかったのだ。

「はい、どうぞ」
洋子は、まるでキャバクラのアルバイトでもしていたかのように慣れた手つきで、俺にグラスを手渡した。
俺は、いわれるままに、ウィスキーを飲んだ。
すると、また、アイスピックで氷を割って、洋子がおかわりをつくってくれた。




その夜、俺と洋子は、久々に激しく愛し合った。
追いつめられた情況がそうさせるのか、あるいは、適度のアルコールと疲労が性欲を増進させるのか。
俺は、洋子の豊満な肉体をむさぼるように抱きながら、大学教授やテレビ局のプロデューサーや警察官や大蔵官僚たちがアルコールと疲労によって性欲が制御不能となって、電車の中で痴漢行為にはしるのも、案外、脳科学的な根拠があるのかもしれない、という仮説をたてはじめていた。
やがて、俺は、野獣のような雄叫びを発して果てた。




真夜中に俺は人が動く気配で目を覚ました。
だが、からだが金縛りにあったようで、まったく動かない。
突然、部屋の明かりがついて、俺は、まぶしさに目をつむった。
やがて、目が明るさに慣れて、周囲を見渡してみると、驚いたことに、俺は拘束衣を着せられて、ベッドに転がされていた。

「お目覚めかね」
見ると、俺の足元には夏目鴎外、いや、澤尻が立っていた。
洋子が寄り添っている。
「うぬ、きさまら、グルだったのか」
俺は、獅子が唸るような声で訊ねた。
「グルなんて、人聞きの悪い。同胞といってちょうだい」
洋子が笑いながら応えた。
「同胞?」
「そうよ。アタシも澤尻教授も帰国子女だったのよ」
「そんな阿呆な論理があるか!」
「アタシたちだけじゃないわ。裁判官の太田さんも検事の宮沢さんも弁護士の山本さんも中学生の上条さんも、みんな、帰国子女なのよ」
「おまえら、この国を乗っ取るつもりか」
「ほほほ、どうなるか知らないけれど、今の段階で、この国の大多数を占める非帰国子女に、われわれの存在が知られては面倒なことになるの」
「ネオ・ホモ・サピエンスの話は本当なんだな?」
「ええ、本当よ」
「くそっ、俺としたことが・・・まさか、おまえまでグルだとは気づかなかった」
「アナタはいい人だったけど、もう、しょうがないわ」
そう言うと、洋子は踵を返して、居間に入っていった。
戻ってきた洋子の手には、さきほどのアイスピックと・・・トンカチ・・・が握られていた。
「くそっ、ひと思いに殺せ!」
俺の言葉に、澤尻は、
「殺しゃせんよ。ただ、簡単な手術をするだけだ」
と言って笑った。
「手術?」
「そうだ」
洋子が澤尻にトンカチとアイスピックを渡した。
「ひぇぇ!」
洋子が俺の口にタオルを押しつけた。
澤尻は、俺の右目を開かせて、眼球の横、鼻の付け根のあたりにアイスピックを押し当てた。
「騒ぐな。すぐに済む。痛みもない」

   トントントン

トンカチで叩かれたアイスピックが俺の眼窩から内部に入ってきた。
「シュシュッとやるだけよ」
洋子が俺に笑いかけた。
「そう、シュシュッとやるだけだ。これまでに、何十万人もやってきたけど、誰も命に別状はなかった」
澤尻が笑いかけた。
「やめてぇ!」
俺が叫んだ瞬間、

   シュシュッ

アイスピックが前後に揺らされた。
「はいおわり」
澤尻は、ボクの目から、ゆっくりとアイスピックを抜いた。
世界の半分が赤く染まった。
「教えてやろう。われわれは、地球外惑星からの帰国子女なのだ。毎年、宇宙からの留学から帰還する同胞が増えている。だが、秘密は厳守せねばならん。きみたちの科学技術も哲学も政治体制も、まだ、レベルが低すぎて、われわれの思考に順応することはかなわないのだ。混乱を未然に防ぐためだ。悪く思うな」
「どうして殺さずに、しかも秘密を教えてくれるのですか?」
ボクは訊ねた。
「だって、もう、アナタは、何事も詮索しないし、トラブルも引き起こさなくなったから・・・アナタの前頭葉のトラブルの原因は破壊されたのよ・・・ロボトミー手術って知ってるでしょう?」
洋子が微笑みながら応えた。

さすが洋子は問題解決がはやい。

そうだ・・・。

ボク、もう、仮説など立てない。

今は、とても幸福な感じがする。

みんなを騒がせるのは良くない。

ずっと、このままでいたいなぁ。