猫を廻すのはやめよう

 つけっぱなしのテレビの前に転がって、うつらうつらしていたら、遠くから「ドドドドド」という音が聞こえてきて、いきなりおでこに軽い衝撃がはしった。手を当ててみると、驚いたことに血がついている。
 私は、呻きながら上半身を起こすと、
「軍曹! オレを足蹴(あしげ)にしていいと思ってるのか!」
 と罵声を浴びせかけた。

 私は、大の猫好きで、実家に三匹、自宅に二匹の猫がいる。猫は飼い主に似る、という法則があるようで、そのうちの四匹までは、おとなしい性格で問題も起こさない。
 だが、先日、コンビニの前で拾ってきた一歳くらいのメス猫は別だ。寒くてひもじくて震えているのを見かねて、コンビニの店員に野良猫であることを確認したうえで自宅に連れ帰ったのだが、大いなる失敗だった。

 愛嬌のある顔つきで、名前は(コンビニの名前を文字って)「ナナ」とつけてやった。ところが、最初のうちこそ用心してソファの下に隠れたりしていたものの、馴れてくると、妙にずうずうしくなって、前から飼っている先輩猫を追い回したり、昼寝をしている私の顔を踏み切り台にして、家中を駆けずり回ったりし始めた。
 あまりに傍若無人なので、いつのまにか、名前も「ナナ」から「軍曹」に変わってしまった。もちろん、「鬼」という形容がピッタリだからである。

 私が額の擦り傷を手で押さえて喚(わめ)いていると、台所でケーキを焼いていた妻が首を出して、
「しょうがないでしょ、そこは軍曹の通り道なのよ」
 と言って笑っている。
 そう、そうなのだ。仕事に疲れて、うたた寝をしているところ、おでこに爪が食い込んで、足蹴にされた、というのは、あくまでも私の論理にすぎない。猫の軍曹からすれば、いつも自分が運動をしている経路に障害物が置いてあったから、そのまま踏みつけて走り抜けようとしただけのことなのである。

 私は月に二回ほど、カルチャーセンターで物理学を教えているのだが、力学を説明するのに猫を使うことがある。
「猫を抱きかかえて、仰向けの体勢にして、ベッドの上に落としてみましょう。猫は、身を翻して足から着地します」
 教科書によると、猫は、まず、後ろ足を突っ張って大きく拡げて、前脚を抱え込んで、上半身だけをひねって下を向く。それから、今度は、前脚を突っ張って大きく拡げて、後脚を畳み込んで、下半身をクルリと回転させる。
 大きなものは廻りにくく、小さいものは廻りやすい。それが物理法則である。だから、猫は、下半身と上半身を交互に拡げて、うまく身体の向きを変えるのだ。

 実際に猫の回転を見てやろうと思い、猫の軍曹を抱き上げて、仰向けにしてみた。次の瞬間、軍曹は、まるでオリンピックの新月面宙返りのように芸術的なひねりを入れながら、満点の演技で着地をし、風のごとく走り去った。手の甲を爪でえぐられて泣き叫ぶ私を後に残して―。


(「年金時代」2005年3月号 掲載)