●第6章 心のありか

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いわゆる精神機能障害と呼ばれているものは多種多様です。現在、アメリカ精神医学会の定めた「精神障害の診断と統計の手引き (DSM-IV-TR)」によると、それら精神機能障害を大きく18のカテゴリーに分類しています。代表的な、統合失調症や気分障害(躁うつ病など)の疾患に加えて、解離性障害(多重人格症を含む)や人格障害などの記載があります。

たとえば統合失調症を例にとって考えてみましょう。これは精神機能の統合性が破綻しているとされて命名された疾患で、思考の内容や過程にまとまりがなく、 支離滅裂な思考や発言をしてしまう症状を指します。統合失調症患者では中脳辺縁系・皮質系のドーパミン経路(前章のA10神経を含む)の活動性が高く、ドーパミンが過剰に放出されていると考えられています。また、大脳皮質でのドーパミン受容体の感受性が落ちているため、前頭前野の活動が低下していることなどが認められています。このようにドーパミンと統合失調症の相関が高いことは明らかなのですが、その症状と神経活動の振る舞いを完全に対応づけることは困難です。統合失調症のような精神障害がどのような脳内メカニズムで引き起こされているのか、私達はそれを理解できるほどの十分な知見を未だ得ていないのです。

それでも、ヒトの精神統合機能と前頭前野のはたらきについて少し考察してみましょう。本文では、前頭前野が「自分の中にある連続した時間を保持する」機能を持つことを述べていますが、その能力は一種の記憶作業とみなすことができます。しかし、その記憶は「思い出」というような長期の記憶とは異なり、一種の短期記憶のようなものです。けれど、ただの短期記憶というわけでなく、認知的な情報処理を可能としています。ある作業をするために一時的に情報を留めておく記憶ということで、この記憶のことを、特別に「ワーキングメモリー(作業記憶)」という名で呼んでいます。前頭前野の機能はこの「ワーキングメモリー」の概念を導入することで、いくらか説明がつくようになってきました。前頭前野は、このワーキングメモリーを使って、「ある目的を達成するために統一の取れた行動をすること」を司っているのです。

分かりやすく具体的な行動を例にとって考えて見ましょう。あなたは今、新しいアパートに引っ越してきました。引越し業者があなたの荷物を一通りそのアパートに運んできました。ダンボールには、衣類・食器・料理器具・本・雑貨など生活用品が入っていますね。ダンボール以外にも家電・本棚・タンス・ベッドなど大型のものもあると思います。あなたはこれから新生活をスタートさせるために、これらの荷物を配置し直さなければなりません。生活に不便しないように使いやすいレイアウトをイメージしてみましょう。さあ、あなたはどこから作業を始めますか?

あなたの作業目的は「このアパートで生活しやすいように荷物を再配置すること」です。今、あなたの頭の中で、どのような順番で作業をするべきかイメージできていますか。まずは大型家具の配置から始めましょうか。いきなり、細かいものを出してもそれを入れるところがないと整理のしようがありませんよね。次に毎日の生活で必需品になるようなものをダンボールから出していきましょう。この段階では、大型家具の配置の構成はもう考えなくてもよくなりました(再考するときもありますが)。それから、 それから…、というようにある作業を行う上で必要な情報を一時的に保持し、不必要になったら捨てていく、この作業を繰り返していくわけです。そして、時間軸に沿って並んだあなたのイメージの通りに作業をしていった結果、最終的に今回の作業目的を達成することができるのです。終わってしまえば、もう引越しの配置について考えることはなくなってしまいます(生活してみて不便だったら一部やり直すとは思いますが)。

しかし、この作業が苦手な人もいるでしょう。ちなみに私はこういう作業がとても苦手です、部屋の片付けとか特に。どこから片付けたらいいのか分からなくなってしまう。じゃあ、私は統合失調症気味なのでしょうか…。しかし、DSMの診断基準に「その症状が原因で職業・学業・家庭生活に支障を来している」という最後の砦があります。もしこの基準が無ければ、世間の誰もがDSMに挙げられたいずれかの精神疾患の基準を満たしてしまうでしょう。私はなんとか自立した生活を送れているので、この病気とは診断されないはずです。あなたはワーキングメモリーの容量が少ないですね、とは言われそうですが…。今流行の脳のトレーニング(東北大学教授監修のあれ)はワーキングメモリーを鍛えることができるらしいです。

また、多重人格症候群(解離性同一性障害)は、個々の人格で精神機能は統一されている可能性があります。統一された人格が一つの身体に複数あるという状態を脳内で実現してしまったと言ってもいいかもしれません。しかし、この疾患は統合失調症の診断基準を満たすことが多く、これらはまったく違う病気であるにもかかわらず、誤診が目立っていたようです。

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オキシトシンは下垂体の後葉と呼ばれる部分から分泌されているホルモンです。下垂体後葉が分泌しているホルモンはオキシトシンとバソプレシン(抗利尿ホルモン)しかありません。共に9個のアミノ酸からなるペプチドホルモンです。オキシトシンは乳管周囲を取り巻く平滑筋を収縮させ、乳汁を放出させます(射乳作用)。その一方、オキシトシンは中枢神経に作用し、愛情や信頼を生み出すホルモンでもあるとも言われています。

血中に放出されたオキシトシンが再び脳の中に入り込むことはできません。脳と血管の間には「血液脳関門」と呼ばれるバリア機構がはたらいていて、必要以上に脳内へ物質を輸送することができないようになっているからです。それでは、オキシトシンはどのようにして脳へはたらきかけるのでしょうか。実は、オキシトシンを放出するニューロンが脳内のあらゆる箇所へ直接投射しているのです。特に扁桃体にはオキシトシン受容体が豊富にあることが分かっています。オキシトシンが扁桃体に作用すると、信頼感が上昇し、恐怖感が減少するという研究成果が報告されています。

昨年の英ネイチャー誌は、オキシトシンを鼻腔から嗅がせるだけで信頼性を増大させることに成功した論文を掲載しています。研究者達は、被験者に「信頼ゲーム」をやってもらい、彼らの行動を詳しく調べました。このゲームでは、「投資家」は自分の所持金を「受託人」にいくら投資するかを決めることができ、受託人はその投資額の4倍を手にしたあと、投資家にいくら払い戻すかを決めました。すると、オキシトシンを吸入した場合、投資家は信頼の気持ちを強くもつようになったそうです。オキシトシンスプレーが世に出回ったら、いかにも悪用されるのが目に浮かびますね。

「オキシトシンはヒトの信頼を増大させる」
http://www.nature.com/nature/journal/v435/n7042/abs/nature03701.html

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とある有名な神経科学の教科書(Principles of NeuralScience)には、「神経科学研究のゴールは"心"を理解することにある(The goal ofneural science is to understandthe "mind")」とか、「生命科学の最後のフロンティアは"意識"の生物学的基盤を理解することである(The last frontier of the biological sciences is to understand the biological basis of "consciousness")」という記載があります。では、心や意識がどのように定義されているかといえば、「心は脳活動の総体であり、意識は脳機能の一部である」ということが書いてあるくらいです。この定義に則ると、意識は心の一部ということになります。そして、意識は「主観性」「統一性」「内包性」という特徴を持つとしています。神経科学会では、まだ意識という言葉が積極的に使われることはありません。「意識」という言葉が「知覚(perception)」や「認知(cognition)」という別の言葉で代用されるのは、まだ「意識」を具体的に研究する術がないからです。逆に言えば、知覚や認知機能を研究することで、「意識」とは一体どういうものなのかを明らかにしていこうというスタンスが科学的態度なのだと思います。

現代の脳科学の定義では、「心」=「脳」というデカルトの心身二元論的な立場をとっているような気がします。特に西洋哲学を踏襲する欧米の研究者にそのような傾向があるのでしょう。一方、筆者が示した「心」は「情動」に近いということでした。「情動」とは、喜怒哀楽のような感情に伴い、ある行動を起こすことです。非常に瞬間的な感情で、外部刺激に素早く応答する動的な内部状態を指しています。そして、心は身体の隅々まであってもいいと言及しています。心と身体は分離できないとする心身一元論的立場をとり、「心」=「身体」の図式が成り立っているように思えます。

このような問題は、昔から心身問題として長い間哲学的に考察されています。デカルトの心身二元論以降、心と身体の関係は、心と脳の関係に移行してきました。それに伴い、「心身」問題は「心脳」問題と呼ばれるようになり、現代脳神経科学の推進力となっていることが伺えます。著者達も脳が心の中枢になっていることは否定していないと思います。しかし、身体全身で外部環境を受容することでクオリアを得、あくまで身体の一部として脳を捉えることで、心が脳に局在しているわけではないということをメッセージとして贈りたかったのではないでしょうか。

●第7章 思い出製作所

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巻頭にある脳地図にも注が記載させていますように、海馬の頭は一つに繋がっているわけではありません。実際の海馬は下図(BrainConnection.com)のような形をしており、その中で下側の部分が海馬に相当します。鎌首をもたげるような格好をしている上の部分は脳弓と呼ばれ、先端部分は乳頭体と呼ばれる別の器官です。

海馬については、本学薬学研究科の池谷裕二先生がウェブサイトにて、 詳しい説明を掲載していますので、ぜひご覧ください。

“海馬”を究める
http://www.gaya.jp/research/