●第4章 右脳迷路

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左脳と右脳の機能の違いについて、左脳は論理的、右脳はイメージ的な処理を得意とすると言われます。たしかに、左脳は言語や計算をする能力を、右脳は非言語や空間を把握する能力を主に司っています。しかし、この能力の分離は絶対的なものではなく、個人差があることも注目に値するところです。右利きや左利きに代表されるように、脳には半球優位性(利き脳)があります。右利きの人は左脳が優位半球であることが多く、言語野に関しては98%以上が左脳にあり、言語機能の左右分離が明確です。

しかし、左利きの人になると、7割は左脳に言語野がありますが、2割の方は右脳に言語野があるのです(残り1割の方は両方にあります)。これは言語に対しての半球優位性が右にある、もしくは半球優位性がないということを示します。それでもトータルで考えると、利き手に関わらず、言語野は左脳に存在することが多いということで、左脳は言語や計算を扱うのを得意とする論理的思考を行う側として知られているのです。よって、第6章に出てくる女性のように左脳を損傷した後でも、右脳を使ってコミュニケーションが取れるようになったことは、脳の機能局在性が絶対的ではないことの証明にもなります。

実際にfMRIなどを使って脳の機能を研究するときは、実験に参加してもらう被験者を右利きの方に限定することがあります。優位半球が左側の人と固定することで、実験結果のばらつきを最小限にし、実験精度を高くするためです。もちろん、利き手に関わらず、同じような脳内活動が記録できることもあるのですが、利き脳を揃えたほうが一般化を対象とした研究には都合がいいのです。そのうち、個人差を対象とした研究が盛んになることが予想されますが、個人的能力(脳力)の差を検出することによる倫理的な問題が発生することは不可避かもしれません。

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神経伝達物質 neurotransmitter と神経調整(調節)物質neuromodulator の違いは、電気信号(イオン電流)を直接惹起できるかできないかで決まってきます。シナプス伝達のところでお話したように、シナプス間隙に放出された神経伝達物質は、シナプス後細胞に電気信号を生み出します。この電気信号はイオンチャネルとよばれる扉が開くことによって生じますが、その扉を開く鍵の役割をする物質は限られているのです。神経の興奮性を上げる物質は、主にグルタミン酸とアセチルコリン、一方、興奮性を下げる物質はγ-アミノ酪酸(GABA)とグリシンです。つまり、これら4つの物質を神経伝達物質と狭義的に呼び、他の脳内物質と区別しているのです。

その定義に則れば、本文に出てきたドーパミンやセロトニンは神経伝達物質と分類することはできません。だから、わざわざ別の名称を使って、神経調整物質と呼んでいるわけです。ノルアドレナリンやヒスタミンも調整物質になります。他にも、一酸化窒素、アデノシン、サプスタンスP、オピオイドペプチドなど、ちょっと変
わった物質も脳内で調整物質としてはたらいています。しかし、広義的な意味で、これら全ての脳内生理活性物質を神経伝達物質と呼ぶことがあります。この場合は、神経終末端から放出されるあらゆる物質(逆行性伝達物質も含む)を情報伝達物質を指すことになります。

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ランナーズハイは最終的にドーパミンの放出量が増加することで起こります。ランナーズハイの状態では、まずβ-エンドルフェンというニューロペプチドが脳内に分泌されます。それがGABA作動性神経のシナプス前細胞に作用し、GABAの放出を抑制します。GABA神経はドーパミン細胞に投射していて、普段はドーパミンの放出を抑制していますが、GABA神経の活動が抑制されると、ドーパミン神経が興奮し、ドーパミンの放出量が増加します。これをドーパミン経路の脱抑制と呼びます。

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セロトニンとうつ病の関係は、まだ完全に説明できうるほど、そのメカニズムは解明されていません。現在分かっていることは、シナプス間隙中のセロトニン濃度を増やすことで、抗うつ作用を示すことが多い、ということくらいです。実際にうつ病になったときには、第一選択薬としてSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)が処方されます。しかしながら、抗うつ薬であるSSRIを服用しても、すぐに回復するような効果は認められず、少なくとも2~3週間、様子を観察しなければなりません。SSRIの薬自体の親和性は非常に高く、服用後まもなくしてセロトニンの再取り込みを阻害しているのですが、臨床的な効果が出てくるのには時間がかかるのです。セロトニンの放出量は相対的に増えているのに、うつ病が回復するまでには時間がかかる、それは心の病がたった一つの脳内物質では説明できないことを示しているのです。

セロトニンのほかにも、うつ病と関わっている神経調整物質(生体内アミン)として、ドーパミンやノルアドレナリンがあります。特にノルアドレナリン受容体はセロトニン受容体と同じ細胞にあることが多く、密接な関係を持っているのは確かなようです。これは、神経調整物質同士で多様な相互作用を実現しており、それぞれが独立して機能しているわけではないということを示唆しています。そして、脳内に広がる神経ネットワークの伝達効率が変化することで、気分が沈んだり、陽気になったりするのではないでしょうか。しかし、ネットワークにおける情報の伝わり方が変化するには、それ相応の時間が必要になってくると考えられます。その変化を引き起こすものは、抗うつ薬だけではないということが、この小説の中で強いメッセージとして私達に訴えかけてきます。

うつ病はうつ病という名前で一括りにされてしまいますが、本来は多くの変化が複合的に絡み合って発症する病気なのかもしれません。それゆえに、その原因を一つ一つ丁寧に紐解いていくことが重要です。薬や根性に頼って、力ずくでうつ病を治そうと思ってもうまくいかないのです。

まさに、うつ病とは、複雑にこんがらがってしまった凧糸のような状態なのかもしれません。これでは、大空を気持ちよく、凧を飛ばすことができませんよね。根気よくその凧糸の結び目を解いて、もう一度、一から走り出せるような体勢を整えることが最も大切な心構えのように思います(最後は私見で申し訳ありません)。